まぁね、わかってるんだけどねぇ……


「ドS」も「俺様」も「ドM」も、所詮は萌えのためのキャラの類型のひとつだとは。


とりあえず、「ドS」な人を快適な部屋に監禁してサドの著作の朗読を24時間聞かせたい。サド様はエグいことはエグいが、あるところで退屈してくるからなぁ……退屈すんじゃねーぞ。


「ドM」もね、所詮ね、『毛皮を着たヴィーナス』の朗読を聞かせ続けても退屈するんだろうけど。


こういう切なさってなに? 一種の教養主義もどきみたいなもの? なんか我ながら寂しくなってきた……


個人的に、特に男女間で、「ドM」より「ドS」と名乗るほうがうざいのは、何の根拠もなく、というか唯一萌える/萌えられたいという生理に根ざした欲望から相手の上位に立とうとする(幻想も含め)のが、やはりこちらとて生理的に気持ち悪いので嫌いなだけです。むしろ、生理の部分をいきなり露わにするって、格好悪くて恥ずかしすぎて見てられないです。でも、こういう、自意識のゆるいタイプの人って、人の上位に立つどころか、実は簡単に従属させらちゃうと思うのよね。ま、人は良いのかもね、ほんとうのサディストに比べれば。

by風花

毛皮を着たヴィーナス (河出文庫)

毛皮を着たヴィーナス (河出文庫)



追記 20120115

今日の夕方、J-WAVEロバート・ハリスのやってる番組を聞いていたら、おかしな話をしていて驚愕した。ゲストと一緒にドライブしながらトークするという趣向で、ゲストは作家の村山由佳だったんだけど、一人の人間の中に共存する男性性・女性性の話を、たとえでSとMに見立ててなんの疑問も感じていないふたり。もちろんS=男性性、M=女性性。しかし、Mの源はマゾッホ♂なんだったてば。マゾッホが♂じゃなければ、マゾヒズムは生まれていないはずで(なぜならすでに女性原理として自明ならば、わざわざマゾヒズムとして再定義する必要がないからだ)、むしろどちらも源から言えば、男性原理なんじゃないの? と素朴に考えればいぶかしんでもおかしくはないくらいの話。正しくはSもMも、あくまで性別に関係なく個人の嗜好であって、男はS、女はMというのは勝手な誤解なわけです。にもかかわらず、村山由佳いわく、女性は身体の構造からしてMにできている、と。馬鹿かおまえは。頭悪そうな作家だとは思っていたけど。


と、ことほどさように、SもMもその源流を忘れられている、ラジオで素朴に男性原理、女性原理として(しかも作家によって)語られてしまう。のはおかしいんじゃないの。ということに誰も違和感を抱かないのが個人的には謎すぎる。こうして、自らの男らしさを誇示したい人が「俺はドS」とか、女性らしさを強調したい人が「私はドM」とか臆面もなく自己紹介する場面が出現するに至るのであるなぁ。

by友だちに「SM倶楽部で女王様でもやれば」と言われたことのある風花