平井堅が弟だったら

最近の生協は、食料品や日用品のほかにCDなんかもちょっとお得な共同購入価格? で買えるのです。で、平井堅のCD「Ken's Bar �」なんかを買ってみたのです。
なぜに平井堅? う〜ん。なんだろう。すごく好きというわけではないけど。でもアルバムは3枚くらい持ってる。いつのまに? まぁ、何か微妙に心に触れるところがあるのでしょう。

そのあたりのことを書きます。

本題に関係あるのか、ないのか微妙ですが、多少ありそうな気もします。

5〜6年前ほど前。私のいちばん下の弟がアルバイトでストックフォトのモデルをやってたんです。芸能人を起用する予算のない企業とか団体が宣伝広告なんかに使うコマーシャルフォトのストックの人物のモデル。弟は、姉の私が言うのも悔しいというか、恥ずかしいというかなのですが、三姉弟のうちもっとも美形エッセンスが濃縮されている人で(その分、私が損してるんですが)、いわゆる彫りの深い顔立ちで、背も高くて、端的に平井堅的な容貌の持ち主であります(あ、でも平井堅が美形かどうか自明ではないか……)。で、不思議というか必然というか、ある日弟のことも知ってる友だちが「あのさー、これ風花の弟のS君だよね?」と言って平井堅のファンクラブの会報を持ってきたのです。「堅ちゃん似を探せ!」みたいな小さな企画コーナーがあって、全国の平井堅ファンの方々が「平井堅に似てるもの」の写真を投稿してくるという。人間じゃないものがだいたいなんだけど、そこになぜか弟の写真が……正確に言うと弟の写真の写真が掲載されていたのです。「ほんとうにこんなにそっくりな人がいるんですね」みたいなコメントとともに。それは企業の広告のポスターで、東京駅の八重洲口改札あたりにも何枚か張ってあったのを私も見ていたのですが、颯爽としたビジネスマン風にスーツ着て格好良く写ってるやつ。どうやらファンの方がその駅張りのポスターを撮ったみたい。駅で見たときは、姉として平井堅に似てるとかはまったく思わなかったんだけど、他所様には激似! だったのですね。母に教えたら早速ファンクラブに入って会報を入手したみたいです。というわけで、平井堅には他人よりちょっと親しみがあるようなないような。

さて、本題はというと、生協で買ったCDのこと。これ、全曲平井堅が自分の愛好してきた曲をカバーしてるアルバムでございます。「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」という曲が入っています。解説によると、バンドブームが去り、男性ボーカリストの時代と言われはじめた90年代前半に活躍していた楠瀬誠志郎という人の曲で、93年に郷ひろみがカバーしてヒットしたとのこと。私は今回初めて聴きました。郷ひろみがこの曲を歌ってる姿がまったく想像できないんですけど。というのも楽曲の性格よりも歌詞が……これこのような。歌詞は芹沢類という人。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=37894
93年以前の郷ひろみのキャラとまったく合ってない気がするのは私だけでしょうか。

ところで、平井堅といえば、もちろん歌謡曲大好きな人として知られてるんですけど、果たして、そんなにもヒロミゴウが好きだったのか、曲調が好きだったのか……たぶん、歌詞が好きだったんじゃないかと思う。
平井堅的世界というのは、アルバム3枚しか持ってなくても、なんとなく解る気がするのです。彼は「男子の純情というシチュエーション」に自分萌えするタイプじゃないかと。
好きな女性がいて、秘めた純愛を捧げてるんだけど、気づいてもらえないせつなさと惨めさ。というのが平井堅のコンプレックス? であり自分萌えポイントのような気がする。彼のファンがたぶんもっとも支持している曲「even if」という初期の曲もまさにそういうシチュエーションです。平井堅の自分萌えポイントとファンの萌えポイントがここら辺で重なっているはず。たしかに彼の声は、セクシーなR&Bを歌うには色気とか毒気が足りない気がする。いい人感が強すぎる。しかし、ちょっと情けない男子の純愛を描く歌謡曲をおしゃれにアレンジすると、もろはまるんですよ、まったくおそろしいほどに。「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」に郷ひろみがどれほどはまってたのか検証しようとはあまり思わないので比較は厳密ではないですが、郷ひろみが意外性で受けたのだとしたら、平井堅ナチュラルに受ける。そういう土壌が完全にできあがってる。そして、そういうキャラの土壌が、私は嫌いじゃないのだ。

好きな女性がいて、秘めた純愛を捧げてるんだけど、スルーされて切なくて惨め。っていう男子の報われない純愛の歌の伝統があるとすれば(「僕が〜」という歌があるくらいだから、そういう伝統もあるんだろう)、今その継承者は間違いなく平井堅です。


好きな女性がいて、秘めた純愛を捧げてるんだけど、スルーされて切なくて惨め。性愛の強度中心のオトナの男モデルの恋愛がモテのひとつの類型だとすると、対局といえそうな世界。勝手に「精神中心少年の憧れモデル」と名づけよう。このような男の不可能な恋愛、恋愛の不可能性、つまり片思いの機微を肯定的に描くのって、いつから始まったのか。脈の無い女を長期間恋する――対象にこだわり、労力を度外視して、手に入る別のもので妥協しない態度……従来だったら、女のことでうじうじ悩んでる男はダメなやつで、当たって砕けたら次ぎ行け次ぎ! 自分を永久に愛してくれる女なんてそのうちいつか見つかるから。っていうのが男の恋の現実であり、またあるべき姿だったと思うのですが。女子のほうでもそういう女々しい男は嫌いということになっていた。古谷野敦が文学批評で同じようなことを言い出して従来の「男の恋」を批判したのって90年代だよね。古谷野氏の場合、純愛を捧げる対象をわざわざ「美人の才女」っていうふうに限定してる部分は反感を買ってますけど。歌謡曲の場合、女性の美化は歌詞でわざわざ強調しなくても、ある程度曲自体が良ければ語られる女性のイメージも自然に保証されるシステムといえるから、古谷野氏のような露骨な前提がたとえあっても印象としては薄まるのかも。 でも、なぜか平井堅が作ったり、選んだりする曲は、そういう女性の容姿に魅了されて虜になるという内容はすごく少ない気がする。というか、女性の行動は描かれるけど、魅力の描写が少ない。女性がこれこれこのように魅力的だから惹かれた、という過程は描かない。理由はわからないけどぼくが惹かれる君はどんな人なんだろう、ぼくには(もしかしたら永遠に)わかんないほど素敵すぎるんだろうなきっと、という理屈をこそつぶやきたいんだろうなって思える内容が圧倒的に多いような気がしますが、気のせいかしら。評価ではなく、評価の不可能性、価値の不可知性に意味を見いだしている態度です。女性を、根本的に不可知な存在だと考えるファム・ファタル思想と近いような匂いもたしかにしますよ。でも平井堅には、そういう男の幻想が受け継がれているにしろ、あえて、完全に相手を理解しきれるもんね、という傲慢がないことのほうを評価するのです。いまどき、傲慢のほうが腹立つんで、個人的に。

ここのところが私が平井堅をちょっとばかし愛好する理由です。

ところで、対象へのこだわり、労力の度外視、手に入るもので代替したり妥協しない片思いって、思い返せば少女マンガの世界にもあったような気がしませんか? (少年マンガにもありました。「めぞん一刻」とか) でも、いつしか一時期喪われていった。女の子は、どんどん意欲的になり、いろんな男の子との恋愛遍歴を繰り返す方へとシフトしていったように思います。性愛中心モデルが女子の恋愛においても主流になってきました。そういう意味では、このような片思いは古典というか古びたパターンなのです。でも、保守的な人間に限ったことではなく、対象の唯一性や、永遠に手が届かないという絶望からくる陶酔に、どうしても魅入られずにはいられない人がいるんです。私もそうですが。BL愛好者なんかも、男女間で唯一性や永遠に手が届かない絶望からくる陶酔を描いたり読んだりするリアリティがなくなったから、あえて男―男にそれらを託している人が結構居そう。BLは性愛描写だけでなく、男―男ゆえに永遠に手に入らない感や、その絶望からくる陶酔を描きやすいのかも。精神中心といっても、性愛を否定するわけではないってことです。むしろ性愛を最終的な目的地化しないこと、性愛から新しい不可能が始まる場合などをさしています。

今はそういうエッセンスを、男女を問わず、表現する時代になったんですしょうか。男でも女でも、どんどんいろんな人と恋愛して世界を知っていく道を選ぶ人もあれば、ひとりの人へのこわだわりから世界との関係性を考える人もいる。いろいろあって、いいんだなぁって、それはうれしい。 唯一性と永遠に手に入らない絶望感からくる陶酔って、ちょっとばかし古風? 19世紀の恋愛小説みたいともいえるかもね。形式だけを取り出すならロマンティックラブ・イデオロギーの模倣に過ぎないとも。冒険や探検が悪いというわけじゃない。ただ、行く先々で出会う人に対して常に合理的に判断し、どういうおつきあいをするか決めなければいけない現代の冒険はほんとうに冒険や探検なのか? と思うことがあるんですよね。合理的な判断に基づく自己決定って、少しでも不合理を感じればすぐにご破算にして、新しい関係を求めるということでもあるでしょう。合理的な自己決定によってますます合理性は高まり、合理性が高まれば不合理への忍耐は喪われる。愛というものはただでさえ幻影なのだけれど、現実の経験が増えれば幻影もリアルになるわけではない。合理的自己決定が蓄積した愛に関する情報の膨大なデータベースを持つにいたって、それが愛をリアルにするというよりは、幻影をいっそう幻影へと押しやるだけのように思います。そしてふとルサンチマンが忍び込んできたりします。自己決定=選ぶという過程は価値を発生させるのか? 選ぶことは価値を担保するのか、そもそも幸福なのか? 選ぶこと、選び続けることが保証されていることより、アクシデンタルに出会ってしまったという圧倒的事実の意味を考えることに意味があるんじゃないか、ほんとうの価値はそうした時間のかかる解釈や理解へのコミットからしか生まれないのではないか……そんなことを平井堅を聴くとつれづれに思います。
ひとりの人との関係性から愛という幻影について、あるいは世界について知っていくって、良い意味では愛や人間関係ひいては他人や世の中への解釈や理解に深みや持続性を導き入れてくれるというか。それに精神的にも安定します。ある意味信仰ですから。関係の解釈や理解に深みや持続性を保証するのはもっぱら女子からの愛によるというのが近代なら、もっぱら男子からの愛でもよし。が今日的なのか。


で、もし自分の弟がそういう恋愛をする(逡巡してばかり)タイプの人だったら、私は、姉としてかなり慈しみの目で見守ると思うのよね。こうして、平井堅が弟だったら。っていう別のシチュエーション萌えをしてみるわけです。実際のところ平井堅激似の弟はどいういうタイプかよくわかんないので、むしろほんものの平井堅が弟だったらよかったのになぁ……そんな弟のことを観察してエッセー書いたりしたら楽しそう。 なんてね。


by 風花

Ken’s Bar II(初回生産限定盤)(DVD付)

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