La folle journeeまたは死霊の盆踊り


バンクーバー冬期オリンピックもようやく最終盤となった。
世間の狂熱にまったくついていけなかった俺。
子どもの頃は、オリンピックってもっと楽しかったはずだが、どうしてこんなに醒めてしまってるのだろう。


なかでもフィギュアスケートをめぐる大騒ぎには、うんざりを通り越して、いっそフィギュアスケートなんてやめちまえばいいのに! とさえ思った瞬間もある。


たしかに、採点基準のあり方は、今後大いに議論されてしかるべきだ。プルシェンコが、一選手の信念からISUに今回の結果について疑義を提し、何らかの対応・回答を要求するというのは、潔くないと避難されるべき行為ではまったくない。もし、浅田真央が同じようにスケーターとしての信念からキム・ヨナの得点や金メダルに納得できない、疑義を呈するというなら話はわかる。実際、ISUのジャッジには過去疑惑・不正があったわけだし。冷静に、理性的に異議申し立てするのは、フィギュアスケートに対する貢献でもあるだろう。


俺が黙って見ていられない、というかもう目も耳も塞ぎたくなるのは、なぜ採点基準への疑問や異議を語るのに、選手でも専門家でもない輩どもが、急にわらわら湧いて出てきて、カジュアルにキムチとかチョンとかの差別的蔑称や、韓国政府や韓国スポーツ界のすべてが八百長を働いているとかいう憶測を混ぜ込むんだよ! という不快感からなんだ。スポーツを語るならスポーツを語る語り口を守ってくれ、頼むから。論理的に正しいことを主張したくても、語り口があまりに汚いと妄言と区別がつかない。なんでフェアネスを求めるのに、ナショナリズムヘイトスピーチをてんこ盛りするんだ。ま、目的と手段の適正化を理解できないという点で日本だけが酷いなんてことがないなら、世界中でメダルや入賞を逃した国で、「フィギュアスケートシングル種目で日本人全員が入賞って胡散臭いよな。裏になんかあるんじゃない? 八百長?」くらい言われてるんだろうね。


とくに今回のオリンピックで心が冷え込んだのは、普段周りに居て、そこそこ親しくて知性もあると思ってた人が、突然上記のような妄言を繰り広げ始めたことだ。いや、彼女は実はフィギュアスケートヲチャーであり、それなりにフィギュアスケートを見る目もあるんだ、だからこそ悲しくなる。君は語るべき言葉を知ってたはずだろう、と。


なんだろね、ゾンビ映画で、友だちや家族がゾンビになっちゃって意志の疎通もできない、ただ餓えに駆られて人間に襲いかかる姿を見て感じる絶望感に似てる。赤の他人ならしかたないと見過ごせるかもしれないけど、親しくつきあってた人が、話の通じない世界へ行っちまったのがたまらなく寂しいし、そんなふうに彼女を変えてしまうフィギュアスケートが憎くなってしまう。


フィギュアスケートってなんだろね。トリノのときは、荒川静香アイスショー的な演技を大絶賛したよね。そして今度はアイスショー的なものをたたきまくる。いっそのことショートとフリーじゃなくて、テクニカルとドラマティカルの2プログラムにして、どちらも課題曲から振り付けから、ジャンプの回転数とか回数まで全部決めてやればいいじゃん。衣装もな。そして、テクニカル・プログラムでは最高難度の技へのトライは絶対に入れなきゃいけない。ドラマティカル・プログラムでは演技力を試す。もちろん、俺はヲチャーでもないし、ヲタでもないから、真面目に言ってるというより、わざと極端なことを言ってみてるだけだよ。


毎回のようになにかしら納得できないものや後味の悪さを残す競技って、よくわからない。だからこそ、人を豹変させてしまうほどに魔力、いや魅力があるとも言えるけどね。


俺が共感できたのはジョニー・ウィアーだけだった。人がなぜフィギュアスケートを滑らずにはいられないか、その根源が彼の演技を見ていると伝わってきた。フィギュアスケートなんかやめちまえ、と感じていた俺だが、競技としてはどうにも不条理なのに、魅了されずにいられないものなんだと納得した。でも、彼の演技中から感じていた嫌な予感−−誰かがくそな誹謗中傷をしそうな−−は、やっぱり案の定だったんだな。でも、ウィアーを理解してる人もいっぱいいるみたいでよかった。人がフィギュアスケートを滑らずにいられない根源的な欲求とは、自由への憧れなんじゃないだろうか。地上では感じられない、伝えられない自由が氷の上にはあるんだろうと思う。ウィアーの記者会見も立派だったね。彼は自由のために滑ってる。


ルールの不完全さのことなんてどうでもよくなる。そもそも自由を規定することは人間には難しすぎる。4回転をどう評価するか、トリプルアクセルをどう評価するか、その方法を見つけることはできないことではないだろう。だけど、ウィアーが提起したルールの「困難」は、もっと深いものだった。しかも、記者会見で反論した彼の語り口は彼自身の演技を裏切らないものだった。フィギュアスケート自体に泥を塗るような言葉も方法も彼は使わなかった。さすがだ。


それに比べて。


オリンピックっていうのは、最初から曇ったフェアネスを信じてみせる振りをする。という壮大かつチープな虚構なんだろう。二重の欺瞞を言祝いでるわけだ、俺たちは。透明な、本物のフェアネスなんてものは端からありはしない、そうニヒリスティックな気持ちになってしまうのが俺の性格だけど、ウィアーを見て、少し考えが変わった。彼には見えているのかもしれない。もちろん俺には見えないが。


オリンピックが定期的にやってくる狂熱なら、盆踊りもおなじだよな。オリンピックで、見えない、ありもしないフェアネスに一瞬触れられそうに感じる感じさせる祝福された人間もいれば、ただ単にゾンビ化して死霊の盆踊りをするだけのやつらもいる。そういうことか、と思う。



byおじこ