ある殿方について IQ高めって嫌



ある殿方について、最近とても気になってしまいます。
その方にはお会いしたことがなくて、つまりオンラインでしか存じ上げないのですが、妙に気になってしかたありません。


その殿方−−仮にRさんとお呼びいたします−−は、源氏物語では六条御息所がお好きだとか。六条御息所が、光源氏を思うにあまって生き霊に化してしまうのを、かわいいとおっしゃる。なるほど。理性も知性も誇りも失うまでに愛に溺れる女性というものはかわいいのであろう。とてもよくわかる。女性に欲望されるのが自明なファルス的存在、がRさんの自己像なのだろうか。


Rさんは、光源氏並みにおもてになる。いつも麗しい美女に囲まれておられる(おそらく)。もちろんオンラインでのぞき見ているだけなので、美女かどうかは定かではないけれど、おそらく美女であろうと思われる。Rさんのお館のサロンには麗人がそれぞれその場所を占めていらして、それぞれ(非常にわかりやすく)妍を競うさまが源氏物語的・後宮的世界を構築している。私は、もちろんそのような華やかな殿上人のサロンを隙見するだけの地下人なのである。


Rさんは、知的で、教養が高く、趣味もよろしい。才能があり、経済的にも成功しておられる。衣食住ほかすべてにおいて上質な文化的生活を送っておられるとお見受けする。芸術を愛する一方、たいへんな美食家で、いつも涎の湧いてきそうなお食事の風景を書いておられる。おそらくは、美女と一緒に芸術を鑑賞した後、ふたりで贅を尽くしたお食事を楽しんでいらっしゃるのでしょう。その美女は、ハイセンスなファッションとランジェリーに身を包んでいるはず。たとえば、毛皮のコートの下には絹のドレス(もちろんパリのメゾンでつくられた)、これまたパリで縫われた凝った下着、ストッキング、そしてピンハイヒール。


食事を終えたふたりは、ラグジュアリーなホテルへ。そして、宝石箱をひっくり返したような夜景の上で、狂ったように愛し合うのでした……が、実はRさんだけは狂ってはいないのでした。Rさんは、狂奔し身をくねらせる女性の上となり下となりながら、どこまでも理性的なのでした。Rさんは、セックスにおいても非常に巧みであられるようだ(もちろん想像です)。


すべてはおそらく。なんせ想像ですから。


Rさんの日々をのぞいていると、おもにご自分の身体を鍛えている(もちろんRさんは美食家である一方、身体を引き締めるのにもやぶさかではありません)時間を描写するのに、「ギリギリのところで維持する」「支配する」「コントロールする」「統御する」「制御する」等々の言葉をよくお使いになります。過酷な鍛錬に悲鳴を上げ、意志に反そうとするご自身の身体に対して、意志がそれを支配し、統御していると感じた瞬間、Rさんの脳内はアドレナリンで満たされる……ようです。その爽快感の描写ときたら、高級スポーツジムの広告写真より爽やかである。そう、熱いシャワーと高級コロンがその汗をよりいっそう爽やかにしているのでしょう。鬱陶しい自己韜晦を払拭した三島由紀夫みたいです。


もちろん、上質な生活を維持できているのも、仕事も意欲をもってバリバリこなしているからこそです。


Rさんの日々を観察しながら、私は心を惹かれてやまないのだが、その主な興味は、「私はなぜRさんにまったく欲情できないのだろうか」ということを解明したいからです。Rさんのような男性を見ていると面白い。だが、Rさんのような男性とは現実ではできればかかわりたくない(いや、可能性ないから、と自分で突っ込んでおく)、ましてや恋愛もセックスも結婚も絶対にしたくない、としみじみ思うのはなぜなのだろう。


そして、昨日の夜眠る前に、マンディアルグの『オートバイ』の一行がひらめいたのです。「《世界はディオニソス的だ》」。オートバイにまたがり、一心に恋人の胸へと急ぐヒロイン、レベッカの激突死の直前に置かれた一節だ。レベッカを殺したのは、おそらく《世界はディオニソス的だ》という認識ではないだろうか。彼女が、「世界はアポロン的だ」という認識の中に存在しつづけたら、彼女は死ななかったと思われる。レベッカを恋人のダニエル=アポロンから永遠に引き離したのは、《どこか外界》からの呼びかけを聞いてしまった彼女自身のせいだ。たとえ実際トラックの車体に描かれたディオニソスを目にしたからだとしても、心の中で《世界はディオニソス的だ》などとつぶやかなければ、レベッカは死なずにすんだ。なぜなら、世界はやはりアポロン的に存在し続けているから。ディオニソス的世界は存在してはなならない。存在しないものを存在すると言った瞬間、最愛の恋人をも決して許しはしないのがアポロン的秩序の本質なのだ。アポロン的世界からの脱出は、秩序の外にあるもの、つまり死をもってしか購えない。『オートバイ』はアポロンからの警告の書なのか、アポロンへの抵抗の書なのか。


Rさんに出会わなければ、『オートバイ』の持つ意味について再び考えることもなかったかもしれない。Rさんは、アポロン的だ。そのアポロンにまったく欲情しない私は、《世界はディオニソス的だ》とうっかりつぶやいてしまうタイプなのだと思う。私は、それが剣呑なことだとわかっているらしい。


Rさんの日常を見ていると、Rさんの秩序に息苦しくなる。自明であること。疑いの無さ。確信。裏返した場合、無知、鈍感、黙殺。わからないことはわからない。知り得ないもの、理解できないものは存在しない。身体を離れた生き霊が人を殺めるまでに恋に狂った女性を恐れるでもなく、畏怖するでもなく、かわいいと評する彼には秩序への完璧な信頼がある。秩序を崩壊させかねない何かを、彼は絶対に知覚しない。できない。彼は、すべてを支配し、コントロールできるという自信に溢れている。彼のサロンに集う美女たちを、公平に紳士的に遇することで後宮の秩序を維持し、実際に関係のある美女たちの感情と身体をも、きっと、自分の身体と同じようにコントロールすることができる。セックスで、女性をこのうえなく興奮させる一方、自分は興奮しても決して我を失うことはない。セックスもまた、彼にとっては自分の肉体をコントロールするのと同じように、他者の身体をコントロールする営みなのではないか……そんな勘ぐりが働いてしまう。


つまらない。


Rさんの日々を見ていても、Rさんのサロンに集う人たちを見ていても、筋書きどおりのセレブな雰囲気しか感じられなくて退屈なのだ。何かに似ている、と思って考え込んだ。思い出したのは、伊勢丹の館内放送だ。クリスマスとか、バレンタインデーとかホワイトデーとか、イベントのたびに制作される、素敵な声で紹介される素敵な生活の一場面。Rさんの生活って伊勢丹クオリティ(Isetan Quality)なんだ、早い話が。彼の求める美しさ、快適さ、上質さ、すべてが高いレベルの中、無害でコントロールされている。


ちなみに私は伊勢丹が大好きだ。デパートとしてはダントツにおしゃれだし使えると思う。でも、伊勢丹を歩き回って買い物熱が冷めた一瞬に、ふと感じるグロテスクなものも知ってもいる。「自分ておしゃれ」という自己陶酔に没入して、馬鹿高いブランドの紙袋をいくつも下げて歩いてる人を見ると、うげ〜っとなる。私もちょびっとだけお仲間か、と思うと恥ずかしくてたまらなくなる。そして、伊勢丹の外の無秩序のことを考える。あるいはディオニソス的世界? うんざりするようなことばかりだろう。だけど、ディオニソス的世界からの呼びかけは聞こえてしまうし、耳をふさぐわけにもいかない。なにより、24時間、365日、一生伊勢丹クオリティ(笑)な人と伊勢丹クオリティで暮らすのはごめんだなぁ、と思うのだった。


ちなみに私が好きな源氏のヒロインは空蝉です。

オートバイ (白水Uブックス (54))

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潤一郎訳 源氏物語 (巻1) (中公文庫)

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by風花