床暖に伸びてこねこの雪見かな

東京に雪が降る。雪国から来た友だちの前ではしゃぐわけにはさすがにいかないと思っているが、それでも、東京生まれ東京育ちの私には、子どもの時分から雪は冬の僥倖のひとつである。


私が子どもの頃は、まだ東京の練馬あたりでは、雪だるまもつくれる、雪合戦もできるほど惜しげもない降り方で雪は降ったものだ。ところが、最近はまるで天使の羽根でもあるかに貴重なものになってしまったのが残念である。


子ども時分からの雪見好きは大人になってからも治らないのに、肝心の雪が滅多に降らなくなってしまったために、なかなな冬の間にその楽しみを味わうこともできなくなった。僥倖はますます僥倖の感がある。


さて、今日の雪もまだまだ降り積むというにはものたらないが、このまま夜通し降ればあるいは明日の朝は家々の瓦や樋などが綿化粧しているかもしれない。それが楽しみなのだ。確実に降り積みつつある真夜の雪の静けさ、人の通りのめっきり減った裏道の水墨画めいた静けさ、雪は生活の荒い息づかいをすっかりと吸い尽くして、たまさか現れた別の世界の入り口ででもあるかのように昏く、そしてまばゆい。しかし、別世界の入り口はやはり書き割りであることに違いはない。ただ、心に昏いまばゆさだけを投げかけて、予感をかきたてるだけの。


雪見の思いではいつもひとりである。


練馬、大泉あたりの畑がこんもりとした雪の原になると、主の家の戸が閉まっているのをよく確認してから、低い生け垣を踏んで、その真っ白な未踏の別世界に初めての足跡をつける、その自分の小さな足跡の大胆さとひたぶるな冒険心を、誰かが空の上から祝福してくれているように感じた。思いの外深い雪の嵩にかくされつつある畑の畝に足をとられて転ぶと、手をついた穴の中に人参の頭がほの赤くいかにも温かげに綿布団の中に眠っているのを発見したりしたものであった。


中板橋の古びたマンションの屋上に寝袋を持って上ったのは、昭和の終わる頃だったか。蓑虫のように寝袋にすっぽりと身体を収めて横たわっていると、なにか寒さに耐えて春には「なにものか」になる幼虫の気持ちが宿ってくるのだった、といって、もちろん蓑虫が生まれてから一生蓑虫なのを知らなかったというだけの話なのだが。次から次へ、風のない灰色の空から雪片はほとんど狂ったように、それでいて垂直な意志の強さをもって降り注いできた。荘厳な大理石の天井を幾千の職人の鑿が削るように雪は降りしきっていた。大理石に何か啓示的な文字の列でも浮かび上がりそうな……しかし、たとえ啓示が現れたとて、それは逆に無数の雪片によって隠されて、永遠に私に示されることはない。耳の奥でショパンのピアノワルツが遠く近く響いてくる。幼い頃見た映画の、貴婦人が独り雪道を馬車で遠ざかっていくラストシーンばかりが思い出される。そのとき、ショパンのワルツが流れていたような……激しい狂乱の白の下で私の意識は澄んでいた。はっきりと自分の冷たく凍りつきつつある手足の感覚、感覚はなかなかな喪われはしない、その感覚の図太さが憎らしくなってくる。「雪の中で眠ると死ぬぞ」と、これも何かの映画の台詞やもしれぬが、この中途半端な痛みともなんともつかぬ手足の感覚を抱えたまま眠るというのは容易ではない、とがっかりした気持ちがした。私は、雪に埋もれて死んでみたかった。眠ろうとして閉じたまぶたが寒さに負けて見開かれた瞬間、灰色の空の雪が生まれ落ちるその上あたりを、十字架の形をした黒い影が悠々として渡っていった。黒鳥の力強い翼は遊弋としてはためいていた。恍惚としてその果断な横断を見送ってから、完全に感覚を手足の先が感覚を喪っていることに満足して、私は微笑した。


浅草あたりまで行けば、まだ人力車に乗って雪見に興じるなどという風流はかなうのだろうか。雪が降り出すと、『春の雪』の清顕と聡子の雪見道中の章だけ読む。白い夢の中から突如起き上がってきたかのような、紫の被布に覆われた華美な荷のような聡子を車で迎え入れる清顕の心持ちほど、うっとりさせるものはない。スコットランド製の毛布の下で絡め合う指はきっとふたりともその冷たさが愛しいのだろう。清顕の膝頭の堅さ、紺色のサージの制服の高襟と白いカラー、その下で駆けめぐっている赤すぎる血、拍動、動揺と幼すぎる感動……黒い幌の中に、蝋人形のように美しい恋人たちを思い描く密かな楽しみ。


聡子を拐かした雪の精は、私もさらってくれないものだろうか。というか、私が雪女だったのか。


雪女は考える。誰に語ろうか、私の雪の彼方に見る、雪の幻、雪の夢。万華鏡のように、いつまでもいつまでも変わらず回り続ける雪の結晶の果敢なくてそれでいて明晰な美しい思い出。美しい青年を拐かした懐かしい思い出を。生きて返したあの若者は雪女を懐かしむ日を持っただろうか?



by風花

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

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