穴と棒の神話から離れて。たとえばドレッシングという陶酔

平井堅の歌世界に見る関係性萌えという話をしたとき、BLにその可能性があるのかもしれないと思って言及した私ですが、実はBL未体験でした。はい、知らずにものを言いました。すみません。今回勧められて水城せとなの『窮鼠はチーズの夢を見る』『俎上の鯉は二度跳ねる』(小学館)という連作を読んでみました。さらに堀あきこの『欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差』(臨川書店)という論文も読んでみたよ。

まず素朴に『窮鼠はチーズの夢を見る』『俎上の鯉は二度跳ねる』の感想から。
端的にいえば、ノンケな男がゲイの男から同性愛という陶冶を受けて恋愛(関係性)を学ぶというビルドゥングスロマンである。と言えるでしょうか。予想どおり、異性愛/同性愛という亀裂のせいで、主人公たちの間の懸隔は大きく、それを超えるためのコミュニケーションが複雑に大展開されます。そして、絶対に埋まらない距離感に絶望し、しかし絶望自体から陶酔を得るという構造はラストまで、いや物語が終わってもたぶんふたりの間では永遠に続くと想像させて終わります。
個人的に良かったと思う点を具体的にあげると、まず、いわゆるリバーシブルな作品だったこと。責め/受けが固定されていない。BLを読むのを躊躇っていた理由の一つが、責め/受けの固定だったんですよ、私の場合。同性愛を異性愛の性規範からの飛躍として描くのではなく、むしろ強化しているのではないかという指摘は前から聞いていて、それはなんだかなぁと思っていたので。またリバーシブルにかかわることでもありますが、責め/受けが一目瞭然でわかるようなキャラ(容姿、属性)の描き方がされていないところもいい。責めが過剰にかっこよく権力や財力を持っている庇護者=男性的、受けが過剰に美しく可憐で脆弱=女性的というふうに描き分けられていないところがよかったです。さらに、リバーシブルというのは、主人公の一方がもう一方を獲得して終わるという一方向な物語として完結しない、双方向なコミュニケーションが永遠に繰り返されるだろうと予想されるところも共感できました。

このあたりのことを堀あきこの『欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差』に当てはめてみましょう。堀の指摘によれば、女性がやおい(BL)を見る視線というのは、受けに同化する視線、責めに同化して受けを見る視線、責め/受けの双方あるいは責め/受けの関係性を見る視線というふうに分析できます。受けへの同化、責めへの同化は、ともに性的快楽に関わる視線であり、責め/受けの関係性へ向かう視線は性的快楽というより、神の視線として恋愛(関係性)や物語そのものの構造を俯瞰する性格を持つとのことです。私がいちばん強く反応したのはいうまでもなく、俯瞰する神の視線です。堀が主に論じているのは、責め/受けのカップリングが固定されている場合なのですが、リバーシブルな作品の場合、受けにだけ同化したい読者や、責めにだけ同化したい読者は、たぶんちょっとずつ不満を持つのでしょうが、関係性そのものを俯瞰したい読者にはむしろ楽しみどころが増えてより美味しいのです。

関係性について堀が指摘するのは次のようなことです。

 ヤオイの二者関係に生じる<関係性>は、「ホモソーシャルな関係」という対等な関係に、権力構造を再び持ち込んだものであった。権力構造は性差別の温床ではあるが、ヤオイに限らず恋愛物語を楽しむ際の大きな要素でもある。なぜなら権力構造と恋愛が強く結びついているからこそ、そこに立場が逆転するドラマティックな展開や、性規範に沿わない関係のファンタジー、二者関係の駆け引きなどが見られるからである。
 この権力構造を解体しようとする時、二つの方向性が生じると考えられる。一つは、どんな形であろうと「支配—従属」という関係が見られるものは徹底的に排除し、フラットな関係に近づこうとするもの。もう一つが、権力構造そのものの存在は不問にしたまま、その構造をズラしていこうとするするものである。

……ヤオイに描かれる類型は、権力構造のパターンに<ズラし>を持ち込むものだと考えられる。

男同士の対等な関係(ホモソーシャルな関係)に権力構造(責め/受け)を再度持ち込み、責めによる受けの強姦などが描かれたりするわけだが、実は、性愛における責めの受けに対する一方的支配と平行して、受けが恋愛心理においては責めをコントロールするという<ズラし>が織り込まれているのがBLの魅力なのです。そして、リバーシブルな作品では、性愛における責め/受けと恋愛心理における責め/受けが、常に入れ替わり逆転するという複雑さを見せます。決してフラットを目指すものではないけれど、責め/受けの双方向性というより入り組んだ大胆な<ズラし>の構造を持つが故に、支配—従属関係がいっそう攪乱されると考えられないでしょうか。

権力構造の攪乱を満喫するという意味で、私は初BLをそれなりに楽しんだわけですが、では、これからBLの世界に積極的にのめり込みたいと思ったかというと……微妙に躊躇いが強化されたというのが本音ですな。BL読むならリバーシブルもの、そして関係性や物語が丁寧に描き込まれた、評価の高いものを選んで読めばいいともいえるし、今はBL批評も盛んなのでそういうものだけを選んで消費するのは可能だと思うのですが。が、しかし。なぜか萎えている自分がいます……

どれだけ複雑精緻に恋愛(物語)が展開されても、終局においては穴と棒という構造に収斂することに、萎える。人間という存在の限界をマジで突きつけられたような感覚です。なまじ異性愛を描いた作品なら仕方ないか、と思えるセックス(穴と棒の関係)という終着地点ですが、BLにおいてもアナルセックスというかたちで穴と棒が終局だというなら。異性愛の陳腐さにうんざりするのとはレベルの違う脱力感に襲われましたよ……

もう、これは私個人のセクシュアリティの個別性の問題ですが。異性愛であれ、同性愛であれ穴と棒という終局形に萎えてしまうんですよ……ていうか、もう人間やめたほうがいいかもしれない。いや、ほかの動物でもダメだね。

どうすればいいんだろう……砂漠が広がってるよ。

そして私はドレッシングの瓶を振る。陶酔というのであれば、ドレッシングの瓶の中にある。分離タイプドレッシングの、比重の違う液体同士が激しくシェイクされ、細かい粒子になって互いの中に、不均一不定形なかたちで入り込み、見た目まったく違う新しい物質に生まれ変わったかに見える、でも分子レベルでは互いに輪郭を保って完全に融合したわけではない瞬間……他者そのものに同化して世界に存在したい、でもその状態を客観的にも感じたい。相手にもそうしてほしい……時間が経つと、また静かに分離を始めて元のまったく性質の違う物質に戻る(完全乳化タイプのドレッシングはつまらん)。ひたすらドレッシングの容器を振りつづけてる私です。

人間というかたちをしている以上、穴と棒という関係の終局性からは逃げられないし、その現実的な充足感の威力もわかるけど……どこか醒めている自分がいます。だからこそ、BLに穴と棒に収束しない関係を求めてしまうんだけど、でも穴と棒を省くと多くのBLがBLとして成立しなくなっちゃうらしいんですよね。人間じゃないキャラが主人公でも穴と棒だっていうしさ……もちろん、性的関係を描かないBLもあるそうなので、可能性としては閉じられていないと期待しますけど。見たことも無いものを夢見たいです。

しかし、私の「ドレッシング萌え」ってあまりにあまりですよね。人外境にもほどがあるだろっつうアホさ……穴と棒ではなく、穴と夢のほうがまだロマンティックな気がする。フロイト先生はなんて言うだろう。


by風花

窮鼠はチーズの夢を見る (フラワーコミックスα)

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俎上の鯉は二度跳ねる (フラワーコミックスα)

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欲望のコード―マンガにみるセクシュアリティの男女差 (ビジュアル文化シリーズ)

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