草食系≒ideavorous?

herbivorous(草食性の)
carnivorous(肉食性の)
omnivorous(雑食性の)
ideavorous ?


森岡正博の『最後の恋は草食系男子が持ってくる』(マガジンハウス)を読んでみたよ。好きになった男子が草食系だった場合に恋愛を成就させるための女性向けのマニュアル本です。私自身はもう恋愛の主体になるつもりは(あまり)ないので、後半の具体的なQ&Aとかは正直ありがたみは薄くて、実質読むところは少なかったのだけど、インタビューで生の声を聴いた「草食系男子という生き方」には共感するところがあったし、そういう生き方を積極的応援したいと思う。「肉食系にあらざれば男子にあらず」という固定観念によって実は少なからぬ男子女子がともに不幸な目を見ていたのは、肉食系男子のせいだけでなく、自分たちだけ草食系に徹っしていられれば良しとしてきた女子の責任でもあるよなぁ。かといって、本書は、女子たちに肉食化せよと説くわけではまったくありません。むしろ、すべての男子に肉食系で生きろということを押し付けず、女子と男子が一緒に新しい草食系な生き方を楽しみ慈しんでいけばいいじゃん、という提案なのである。


そして、今日は森岡氏が去年草食系男子向けに書いた恋愛マニュアル『草食系男子の恋愛学』(メディアファクトリー)も読んだよ(ちなみに『草食系男子の恋愛学』は6刷でした)。男子向けに切々と語られる「恋愛がもたらしてくれるほんとうの幸せとな何か」「女性の身になって考えるとはどういうことか」「男性と女性の間にどんな関係性が可能なのか」「どうして自己の肯定が他者への寛容につながっていくか」……薬局で薬を待ってる間に読んでいてちょっと涙ぐんでしまった。『草食系男子の恋愛学』は女子が読んでも、ほんとうに励まされます。女子が向き合っている現実を理解してくれる男子が存在する(かもしれない)ということがどれほど心強いか、癒されるか……そしてそういう認識を備えた男子が増えてくれること、そして、お互いのよろこびや生きにくさを想像しあいながら、男子/女子がそれぞれに敬意をもって恋愛できる可能性を想像するとなにやらほっとする。どっちかていうと『最後の恋は草食系男子が持ってくる』より『草食系男子の恋愛学』をオススメします。


草食系という生き方は、恋愛に限らず、現実を批判的に検討するために好都合な対抗概念だ。もちろん、肉食系/草食系という概念は学術的に確立されたものではなく、いまだにジャーナリスティックな用語にすぎない。けれど、フェミニズムと言われると腰の引ける人も草食系というコトバならなになに? 恋愛できるの? と話を聴いてみようかという気にさせるし、そこで現実への違和感や自分の中の抑圧的なもしくは抑圧された部分など、何かしらに気づくきっかけになる可能性もある。


私たちは、自分の思いどおりに生きようとして、そして生きられているという感覚がなければ生きていけない。自由であるという前提を疑うことはない。けれど、自由について、私たちはまだほんとうに知っているわけではないんじゃないかなぁ。自由って、「自律した個人という主体」にとって制約の少ない状態とかいうふうに理解されがちだけど、自律とか個人とか主体ってなに? ってちょっと意地悪な視線を向けたことのある女子は少なくないと思う。


前のおじこの日記を、私は荒んでるなぁと思って読んだのだけど、意外に重要なことを言ってたのかも。人間関係には、同じ目的を共有し、それを遂行達成するための関係性もあれば、別の文脈もあると思う。たとえば、コミュニケーションの継続そのものが目的である関係性とか。目的達成のための関係性って、たとえば企業が利益をあげるために必要だけど、効率性を維持するためには必ずシステマティックな人事評価的な目線で互いを見てるよね。数値化できる、客観的公正に評価できる要素で序列化して適材適所に配置する。そこでのコミュニケーションてのはマネジメントの問題で、それこそ人事コンサルタントの人たちがいろんなメソッドを開発してきたわけだけど。でも、そういう人事評価的なマネジメント型の関係性って、その人の「かけがえのなさ」みたいなものは発見したりできないのかもしれない。なぜなら「かけがえのなさ」はほんとうに人それぞれ、多種多様に存在するのだから。


自律って、他者からの自由という意味合いをまず感じるのだけど、では自己からの自由とはないのか? と私は常々思っている。自律せよ! あるいは最近では自己実現せよ! と説得され、自律した人間になってみたものの、あるいは自己を実現してみたものの、その自己が、なんとなく他者に対して醜いかたちで存在してるような気がする瞬間がないだろうか(そういう醜いものを見る視線を投げかけられずにはすまされない)。他者を抑圧して存在することの汚らわしさにはっとする瞬間というか。自分が抑圧的になっていることの理由を相手の弱さのせいにして正当化していることに後から気づいて、吐き気がする瞬間というか……そういうことがしょっちゅうあって、そのたび私は自律した自己からの自由を想像しないではいられない(このへんが私が『Oの物語』が好きでマゾヒズムに観念的に共感する理由なのかもしれない。現実的な性的嗜好としては私はMではないので……)。自己からの自由を成し遂げてる感のある人や瞬間が「かけがえのなさ」なのだ、私の場合。


おじこは、文化や芸術を、企業が求める生き方へのカウンターとしてとらえていたけど、企業的生き方が自他に対するマネジメントだとするなら、マネジメント(律すること)から離れたところに文化を発見しても良いではないかと思った。先日『欲望のコード マンガにみるセクシュアリティの男女差』(堀あきこ)を読んだ時も思ったけど、ギリガンが唱えるjusticeとresponsibilityという(「男女の」とは言いたくない。なぜならそれぞれを男女の本質と見なすようなことはしたくないからだけど)倫理観や価値観の違いは貴重なことではないか。justiceがmanageを伴うと考えると、responsibilityに伴うのは——careと書物には出てくるが——私は、最終的にはliberateやreleaseにつながっていけばいいと思うし、そこからこれまでになかったあるいは発見されてこなかった文化が生まれてきたりしないかなと想像してみる。相手に対して、その苦しみ、悩み、患い、捕われから解放してあげたい。そのためのケアを通して、ふと自己からも解放されるかもしれない。


恋愛が、その現場であってもいいじゃない。『草食系男子の恋愛学』『最後の恋は草食系男子が持ってくる』はそう思わせてくれる本なのだった。恋愛は——私自身がこれから幸せになれるかどうか、なりたいかどうかはもう問わないけど——多くの人にとって経験して損にならない良いものだと思う。


ところで、草食系男子というのは、私が平井堅の歌世界やBLに垣間見てきた、一方的に相手を獲得することだけを最終目標としない、対等で双方向な関係性重視の男性像と重なるところが多い。手に入るもので妥協せず、ゆえに自分の欲望を簡単に実現できずとも、恋愛にしろ生き方にしろ理想や憧憬があれば生きていける……私は、草食系ではなくideavorousと名づけてもいいな、と思った。


ideavorousな人は、現実からちょっとだけ中空に浮いた世界に生きているのかもしれない。彼ら/彼女らは、ある人びとからはリアリズムに欠ける敗北主義者と見なされるが、彼らは欲望を実現させるために何かを犠牲にすることや、誰かを傷つけたりすることを潔しとしない確固たる「論理」の持ち主なのであり、そうした自らの論理に背いてまで「人並みの幸せ」を手に入れることはむしろ屈辱でさえある。平和主義なので、自分の論理や価値観を他の人に押し付けることもなく、承認を求めて断固戦うということもない。弱いのではなく、ある意味論理的には非常に強い。でも、決してその強さを言い訳にして一方的に命令したりはしない。その点がみんなのために理想主義を背負って立って世界を変えてやるとばかりにみんなに命令ばかりして、それでいて自分は霞以外のものは食ってないかのように誤解していたような昔の戦闘的(肉食系)イデアリストとは違うところです。現実には自他をマネジメントしながら生きていくしかないかもしれない。無垢でいられるはずもない。自由なんて、どうせ夢にしかすぎないよね……そう口に出しつつも、夢を見てしまう人、あなたはideavorousかもしれません。


あ、おじこは総選挙まで、その後も1カ月くらいはめちゃ忙しいそうなので、しばらく風花だけで更新します。


by風花

最後の恋は草食系男子が持ってくる

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草食系男子の恋愛学

草食系男子の恋愛学