美しいことは、ときにいろいろと罰に似ている。


美しいことは罪。
美しいことは罰。

どちらでしょう。


どちらでもありうるけれど、私は、どちらかというと後者であることを重視する。どうしてそう思うようになったのか、子どもの頃からのいろいろな体験とか知識の蓄積によるものだろうが、かなり歪んでいるかもしれないということは断らなければいけないかもね。


美しいことそれ自体は無罪かもしれないけれど、美しくありたいという願望が、罪であり、また美しい者が美しいままでありたいと願うとき、その願望は決して永続的にかなえられることはないゆえに、結果として美しさそのものが罰としてしか存在しえないと考えられないだろうか。


「いくつになっても美しくありたい」「死ぬまで女でいたい」というようなアンチエイジングな思想が最近流行っているようだけど、地下鉄や繁華街などで、それを実践しているらしき人を見てときどき痛ましい気持ちになる。年老いても美しく端正でいることはあってよいことだと思うが、なぜそれが「いくつになってもセックスアピールがある」こととか「他人を魅了しなくてはならない」というオブセッションにすり替わるのだろうか。


「美しいこと」は良いが、「美しくなろうとすること」にはどこかグロテスクなものが混じり込んでいるような気がしてならない。とくに異性にアピールすること=美という固定観念だけに基づいてるような場合。そういう獣としての美の追求に私はたじろぎを感じてしまう。生物として見た場合、若くて健康な美しさを持つ個体が繁殖相手として魅力的のはわかるが、生物は必然的に年老いるのである。獣としての美は時限性のものなのだ、残念ながら。タイムリミットが過ぎた後、どうするべきか。若くて健康な美しさ、つまり繁殖相手としての魅力を唯一の美しさとして追求するのは、執着とあまり変わらないように見える。そして、そういう魅力だけを求め続ける側の態度もまた執着であると思わないではいられない。


先週、日曜美術館の再放送でやなぎみわ氏のベネチア・ビエンナーレ出展レポをやっていた。「婆々娘々」というその展示の"Windswept Women"というテーマの写真作品では、老若の巨人のように見える女性たちが、それぞれの肉体の若さや老いを強調しつつ、乳房だけは真逆——つまり年老いた女性が若々しく張りつめた人工の乳房を着用し、若い女性が萎びた人工の乳房を着用している——という老いと若さが一人の女性の上に混在している姿で、激しい風に吹かれながら荒野を踏みしめ昂った感情を自由奔放に表現している。その展示を見た外国人の女性が「若い女性の乳房を萎ませてしまうなんて。作家は女性性に対して否定的なのね」と感想を述べていた。こういうことを聞くと、私はイラッとする。若くて張りつめていようと、皺皺に萎びていようと、女性の乳房の女性性に何の違いがあるのだろう。"Windswept Women"の女性たちには 、ただ時間の錯誤があるだけで、女性性はどちらにおいてもまったく否定されていない。若くてぷりぷりのおっぱいだけが女性性の象徴だというのは、明らかにおかしくないだろうか。年をとって乳房が萎びたら女性が女性でなくなるということは生物学的にありえない(年を取ってアンドロギュヌスになれるっていうならそりゃ私的にはうれしいかもだけど)。性転換でもしない限り、女性は女性であり続ける。若くてぷりぷりのおっぱい=女性という視線は、繁殖レベルの魅力だけを指しているにすぎない。それは、女性性というとき、無意識に雄が雌を繁殖対象として選ぶ際の魅力を女性性の基準にしているということだ。やなぎみわ氏は、むしろ年代にこだわらず、簡単には喪われようもないほど複雑怪奇でつよいものとして女性性を提示しようとしているのだろうと思う。老女に若いおっぱい、若い女性に老女のおっぱい。この混乱で私たちの意識は激しく揺さぶられる。いったい、女性とはなにものだとこれまで思っていたのだろうか、と。少女、若い女性、母親、中年の女性、老女。輪切りにされたどの部分かひとつだけを示して「これが女性である」と言うことはできない。できないはずなのに、ぶった切ってきた。それをどうにかしてつなぎ合わせたとき、「女性」の輪郭がにじみ、歪むけれど、あの輪郭とやらはなんだったのだろうか、と自問せずにはいられない。そして、写真の中の女性たちは誰もが、自分のおっぱいに違和感を抱いたり悩んだりするどころか、生き生きとたくましく自由に存在している。女性性とは決して果敢ない時限的な美しさに限定されるものではない。そんな悲壮感に満ちたものではない。"Windswept Women"を見ると、悲壮な美しさと抱き合わされたなにかが崩壊する。崩壊した後、何を見つけるかは人それぞれだが。
やなぎみわ公式サイト



話を「美しさは罰である」という私の感覚に戻す。


たとえば、キリスト教において、人間は罪を犯しうるものとして存在するが、実際に罪を犯さなくても「いつでも罪をお犯しうる」ということそのものがすでに知恵の実を食べたことの罰なのだ。美しいということは、このような意味で根源的な罰でありうる。美しい者が、高慢の罪に陥る可能性は高い。彼/彼女が、魅了された人に対して無意識に権力を振るうということはよくある。そのように権力として存在するとき、人は罪を犯していると私は思うのだが。美しい者は常に罪に接している。そのことが、すでに罰である。「シンデレラ」という有名な童話で、美しい三姉妹のうち、罪に陥らないのは末娘だけだった。美しいがゆえに上の二人は罪に墜ちたわけだが、あるいは美しくなければ二人は罪に堕ちなくともすんだのかもしれない。最初から罠にはめられているという感覚、それが罰という感覚である。


こんなことを言っても、たぶん誰の共感も得られないという気はする。あまりに歪なオブセッションだと言われれば、そのとおりだとも思う。醜く生まれることの方がよほど何かの罰ではないか、と考える偏見が長いことあったのも承知している。美しいこと、醜いことがその人を罪へと導くならば、それは同じように罰である、と私は考える。


別の方向から考えてみよう。もう少し現実的な方向から。三島由紀夫の『豊饒の海』第三部「暁の寺」の中で、あるドイツ文学者が語る「性の千年王国(ミレニアム)」というものが出てくる。「柘榴の国」と名づけられたその国のありさまを見てみよう。

 「あいかわらず人工はうまく調整されておりますよ。
 近親相姦が多いので、同一人が伯母さんで母親で妹で従妹などというこんがらがった例が珍しくないけれど、そのせいかして、この世のものならぬ美しい児と、醜い不具者が半々に生まれます。
 美しい児は男も女も子供のときから隔離されてしまいます。『愛される者の園』というところにね。そこの設備のいいことは、まあこの世の天国で、いつも人工太陽で適度の紫外線がふりそそぎ、みんな裸で暮して、水泳やら何やら、運動競技に力を入れ、花が咲き乱れ、小動物や鳥が放し飼いさにされ、そういうところにいて栄養のよい食物を摂って、しかも毎週一回の体格検査で肥満を制御されますから、いよいよ美しくならざるをえませんね。但しそこでは本を読むことは絶対に禁止されています。読書は肉の美しさを何よりも損うから当然の措置ですね。
 ところが年ごろになりますとね、週一回この園から出されて、園の外の醜い人間たちの性的玩弄の対象にされはじめ、これが二、三年つづくと、殺されてしまうんです。美しい者は若いうちに殺してやるのが人間愛というものじゃありませんか。
 この殺し方に、国の芸術家のあらゆる独創性が発揮されるんです。というのは、国じゅういたるところに性的殺人の劇場があって、そこで肉体美の娘や肉体美の青年が、さまざまの役に扮してなぶり殺しにされるのです。若く美しいうちにむごたらしく殺された神話上歴史上のあらゆる人物が再現されるわけですが、もちろん創作物もたくさんありますよ。すばらしい官能的な衣裳、すばらしい照明、すばらしい舞台装置、すばらしい音楽のなかで壮麗に殺されると、死にきらぬうちに大ぜいの客に弄ばれ、死体は啖われてしまうのが普通です。
 墓? 墓地は『愛される者の園』のすぐ外側にひろがっています。これが又美しい場所で、醜い不具者たちは月夜にこの墓地を散歩しては、ロマンチックな情緒にひたるんですね。それというのも、墓碑代わりにみんな生前の彫像が立てられているので、墓地ほど美しい肉体に充ちあふれた場所はないんです」
 「なぜ殺されなければなりませんの」
 「生きているものにはすぐ飽きるからです。
『柘榴の国』の人たちは非常に聡明ですから、この世には、記憶に留められる者と、記憶を留める者と、二種類の役割しかない、ということをよく知っているんですね。

 ですから、この国の宗教は多神教ではりますけれど、いわば時間的多神教で、無数の神が、肉体の全存在を賭けて、おのおの最高の瞬間を永遠に代表したのち、消滅するんです。もうおわかりでしょうが、『愛される者の園』は神の製造工場なんです。
 この世の歴史を美の連続と化するために、神の犠牲が永遠に継続しなければならない、というのがこの国の神学です。その上、この国の人には偽善が一切ありませんから、美とは性的魅力と同義語で、神すなわち美に近づくには性慾しかない、ということを知り尽くしております。
 神を所有するとは、性慾によって所有することであり、性的所有とは、性的歓喜の絶頂における所有ですけれど、性的歓喜の絶頂は持続しませんから、所有とは、この非持続性と対象の存在の非持続性を結合させることにしかありませんね。この確実な手段は、性的絶頂における対象抹殺しかありませんから、この国の人は、性的所有とは殺人と人肉支嗜食に帰着するということを、まことに晴朗な常識として身に着けているいるわけなんです。


果たして、これは空想の世界なのだろうか? これは、まさに今私たちが生きている世界なのではないか。たとえば、女子アナといわれる人たち。彼女たちには暗黙ではあるが「30歳定年」という賞味期限が設けられ、それまでの間はまさに「愛される者」として世間の注目と愛を一身に浴びるようにして存在するのだけれど、賞味期限切れが近づくと、まるで快楽劇場でなぶり殺すように週刊誌が人々の残酷な視線を煽り立てる。先日、あるジャーナリズム研究誌を読んでいたら、過去の女子アナ哀史の研究が出ていて、それによると実際に70年代には「容色の衰え」を理由にアナウンサー職を解任された女子アナが存在したとのこと、自らのプロフェッショナルを自負する彼女は異動の撤回を求めて訴訟を起こし勝訴したが。今は、訴訟沙汰になるより前に、女子アナ自身の自己責任の問題として、タイムリミットはある。つまり、最も人気のあるうち、高値のうちに、その後の身の振り方——スポーツ選手や芸能人、資産家との結婚——を決められるかどうかが女子アナの才覚と見なされているのだ。「性的殺人」の劇場は存在する。もちろん実際に殺されるわけではないけれど、社会的な存在を殺される場面は多い。


美しく生まれるということは、三島由紀夫が描いて見せたように、残酷な「神の製造工場」たる「愛される者の園」に入れられるという罰を課されることを免れないということだ。女子アナやタレントや女優やモデルといった職業に自ら就く人は、性的殺人の劇場で社会的に殺された後の生について備えるだけの報償と才覚という自己責任とともに、業界に入る。たまに、社会的な死が、本当の死につながってしまうこともある。


なにも女子アナやモデルに限らず、世間では一般的に美しい女性はほとんど罰を受けずにすむことはないのではないかと思う。いわゆる美人の評判の高かった人が、年齢を重ねることで脅かされるアイデンティティの危機を乗り越えるのに失敗するのを私たちはよく目撃する。アンチエイジングに血道をあげる人といのは、そういうタイプなのかもしれない。しかも、性的魅力だけが美しさの基準だとすれば、なおさら隘路に嵌り込んでいっそうグロテスクになってゆく。


私自身も、身近にそういう人を見た。30代に入ってなにかと迷走するうちにどんどん傷ついていって40歳になったのを機に「自分探し」のために退職した人がいた。


私自身の体験も書いておこうと思う。
会社に入って、初めての著者を担当するということになったとき、挨拶に連れて行かれたその場で、上司(女性)が著者(男性)に向かって私を紹介した。「今年の新人の風花です。よろしくお願いします。きれいな子でしょ」と上司は言ったのだ。「きれいな子でしょ」。私は、半ば「またか」、と思いながら、それでもショックを受けずにはいられなかった。なぜなら、少なくとも編集者という職業には容貌の美醜は関係ないはずで、また知性的であるはずの編集者というのは美醜を云々するような人々ではないと思っていたからだ。たしかに、私は大学を出たばかりで、何も知らなかったし、できなかったし、およそ編集者として取り柄はなかった。「きれいなこと」だけしか、今の私には無いのだ。と思い知らされた。そして、たぶん「きれいなこと」以外に私が評価されるのは容易なことじゃないのだろう、そんな気がした。あのとき——いや、もっと前からかもしれない——から「きれい」「かわいい」はほとんど呪いの言葉だった。「きれい」「かわいい」以外に私への興味も評価も生まれない。いつもそんな絶望感に呪縛されていた。


たとえば、著者(男性)の主催するセミナーに出れば、その後「ほんとうに風花さんはお美しいですね。話している間中ずっとあなたのことを見ていました」というメールが来たり(何を返事すればいいのか?)、ある著者(女性)には、原稿を書く代償に、自分の知人(男性)との会食に出てほしいからはじまり、最後は知人(某有名大学の数学の教授だったかな)とお見合いしてほしいと懇願された(もちろん断った)。用もなく食事に誘われた。誘われた合コンは、なぜか険悪になった。なんかそんなことばかりだった。「きれい」「かわいい」のほかに何の言葉も引き出せないのだろうか。それほど人間的魅力が乏しいのだろうか。今から思うととんだ自意識過剰だと反省半ばだけどれど、その頃は「きれい」「かわいい」は、人畜無害で凡庸だと言われてるんじゃないかと思い込んでいた。だから最初にその言葉を口にする人に対して、私は忌避の思いを強くしていくばかりだった。私の20代は薄暗い部屋に閉じ込められてどこかからいつも誰かに値踏みされ、観賞されるだけで、自分の方からは何を話すのも禁じられている、そんな感じだった。どんなにタフに働いても、みんなが喜ぶのは「きれい」なこと「かわいい」ことだけなのだった。


そして、他人に対して誘惑したり魅了したりすることで権力を振るわないように、自分が誰かに対して抑圧的になっていないか、と常に恐れなければならなかった。そして、恐れれば恐れるほど、私は自分の中に閉じこもった。


でも、ほんとうに恐ろしい体験をしたのは20代が終わる頃だ。いつか、「きれい」「かわいい」以外に人間として才能や魅力を評価してもらえる時がくるはず。それが成長ってもんだよね——私はとても欲張りで、仕事以外にいろいろ野望のようなものを持っていたのだった——そう思っていたはずなのに、いつの間にか30になって「きれい」も「かわいい」も喪われたら、評価どころか、もう誰も私の存在さえ忘れてしまうのではないか、という強迫観念が突如強まっていった。そして、29歳のときそれが「醜形恐怖」という症状になって顕われた。顔面が少しずつ崩れているのではないかという恐怖から、5秒おきに鏡をチェックしないといられなくなった。帽子、サングラスが無いと外出できない。整形手術を企図して、都内の美容整形外科の有名どころをほとんどまわった。そして、ついには家から一歩も出られなくなった。おじこに付き添われて病院に行き、そのまま3カ月入院した。鬱病だった。結局、内も外も完璧であること、しかも誰に対しても無罪であること、もちろんそんなことは誰にも不可能なのだが——に固執していただけだった。


たぶん、私は人として魅力に乏しかったのだと思う。「きれい」や「かわいい」を破って流れ出すようなものがなかったのだろう。それに、女子アナ的才覚がなかったのも事実だし、女子アナ的解決を望みもしなかったのも事実だ。「きれい」「かわいい」という砂糖衣の下で、いつの間にか空洞になっていたんだと思う。それは子どもの頃からずっとずっと着せられ続けた、そして脱ぐことを知らずにきた砂糖衣だった。


30代になって、私は砂糖衣から脱皮しはじめた。まだ砂糖衣が残っていたとしても、それはもう私の問題ではなく、私を見る彼ら/彼女らの問題だ。男から視線を投げかけられようとかけられまいと、それは私の問題ではない(できれば投げかけられたくないが)。私は、ここ数年の間に羽化する準備をしてきた。私は意地悪になり、そして、きれいではなくなりつつある。だが、少なくとも、自分を探しまわる必要はない。


やなぎみわ氏の「My grandmothers」や「Fairy Tale 老少女綺譚」に出会ったことも大きかった。砂糖衣の代わりに特殊メイクで老女の皮をまとった女性や少女たち。美しさと醜さ、無垢と悪意、無知と経験、若さと老いが入り交じり、奇妙に混乱する女性、少女たちのイメージは、私には自由の予表に見えた。女性であるということは、まったく単純なことではない。時に手に負えないほど面倒だ。一方に砂糖衣があり、一方に砂糖衣を突き破り流れ出そうとするドロドロした複雑さが渦巻く。それでいいではないか。どちらか一つでは退屈だ。甘い毒だからこそ、死ぬまでそれを舐め続けていたい。女性であるということは、甘い毒をゆっくりゆっくり舐めることであり、舐めさせることだ。致死的な栄養。そして、甘い毒が引き起こすメタモルフォシスを繰り返す。メタモルフォシスは解放である。その解放を劇的に描き出すのがやなぎみわ氏の作品群なのだ。


美しいことは罰である、と突き放して言えるのは私がもう美しくはないからかもしれない。美しいことは、一つの罰である。美しさを利用し、魅了することで他人を操ったり、抑圧するという罪に嵌る危険性が高いことは生まれながらの、不条理の罰である、と思う。また犠牲としての美しさという罰もある。けれど、「生きる」という必然的に汚辱を伴わざるを得ない「時間」がメタモルフォシスとともに解放をもたらしてもくれるのだ。病むことも、衰えることも、老いることも、死ぬこともメタモルフォシスである。


by風花

やなぎみわ―マイ・グランドマザーズ

やなぎみわ―マイ・グランドマザーズ

Fairly Tale 老少女綺譚

Fairly Tale 老少女綺譚

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)