「可愛い」がこわい

昨夜NHKの「追跡AtoZ」で、ペットの虐待や遺棄の問題を見せられながら、「可愛い」ものがよいという価値観の歪さや罪深さを考えさせられた。



ペットを飼い始めるに際しての日本人の子犬・子猫指向の異常さ。成犬や成猫より子犬・子猫のほうが「可愛い」から選ぶのだという。犬も猫もいずれ大人になって可愛くなくなるものなのだが。生後すぐに母親やきょうだいから引き離されて、夜、暗闇の中で眠ることも許されず、煌々とした蛍光灯の下でディスプレイされる子犬や子猫に群がり「可愛い〜〜ッ!!」と見入る無邪気な老若男女。「可愛い」からと衝動買いしたり、貰ったりしたものの、飽きたり、成長して可愛くなくなった途端に虐待したり、遺棄したり、殺処分したりする人びと。こわい。「可愛い」がこれほど残酷な過程の引き金を引いているのを見ると、「可愛い」を良しととする日本独特の価値観や文化に違和感を覚えてしまう。「可愛い」とは、つまり自律・独立した一個の生命であるということの前に、自分の欲望に何の異を唱えることがないモノ化の視線を先立てていることではないのか。



犬猫にかぎらず、人と人の間でやりとりされる場合にも、私は「可愛い」という言葉に一抹の恐怖を感じずにはいられない。私の好きなBLマンガ『俎上の鯉は二度跳ねる』の中に「『可愛い』っていうのは『愛す可し』って書くんですよ」という台詞があった。文学においてはもっぱら、「愛す可し」というテーゼは「『他者』を愛す可し」というテーマの下にある。つまり、可愛くない、可愛くなくなったものを、なおいかに愛すことができるか? という問いが問われるのが一般的なのだ。『俎上の鯉は二度跳ねる』で、「可愛い」という言葉が現れるに至るのも、恋人が他者であることの確認と、その「他者」である恋人を自分は愛し続けられるのか? という煩悶・葛藤の末なのであった。「プリティ・ウーマン」という大衆映画においても、いちおうその葛藤は−−形式的なものにすぎないにしてもーーあったように記憶する。要は、「可愛い」は他者を受容するために試されなければならないものとしてある。少なくとも大衆のための芸術においては。



しかるに、現実においては? 頭が痛くなってきそうなので、子細に検討するのが嫌になってくるのだが、結論からいえば、他者の受容として発される「可愛い」もあるにはあるだろうが、真逆の文脈で頻発されているのではないかという気がしてならない。相手の自律と尊厳を自分の欲望の前に「無い」ものとしたいときに、我々は「可愛い〜〜ッ!!」と口にしているのではないか。相手の自律と尊厳を蹂躙しても、抵抗されない、あるいは罪を問われないという確信があるからこその「可愛い」ではないのか。愛玩することも虐待することも、己の欲望のままになる存在を求める心が「可愛い」と言っていないか。児童虐待や性暴力に、「可愛い」が含まれていないと信じることが私にはできない。



あるとき−−いい大人になってからのことだが−−ある人と会話していて、非常に不愉快な思いをさせられたことがあって、思わず切れて「そういうことを聞くのはセクハラっていうんですよ」と注意喚起したところ、「だって可愛いから知りたくなっちゃって」と返されたことがある。自分のことを「可愛い」と言ってくる人間を信用しなくなったのはいつの頃からだったか。おかげさまで、おばさんになったのでもはや「可愛い」と言ってくる人もいなくなったので私個人は気楽であるが、私と同じ年頃の人間が、可愛い子ども、可愛い女の子、可愛い男の子、可愛い後輩、可愛い部下、もちろん可愛い動物に、いろいろな意味で暴力を振るっていないとも限らないと思うと心穏やかではなくなる。もちろんのことだが、個人的には「可愛い」の使用には厳重注意したいところである。



ついでに言っておくと、「可愛くなくなったおばさんがひがんでいる」という言説を唱える人があるとすれば、まさに馬脚を現したといえよう。見た目の愛くるしさ=自分にとっての価値の有無によって相手の尊厳に優劣をつける人間こそがペットの虐待や遺棄を犯していると告発していたのが昨夜の「追跡AtoZ」であり、彼ら彼女が、可愛くなくなったペットを虐待し、邪魔になった子どもを虐待し、自分より立場の弱い者が思い通りにならないときパワハラし、(物理的・精神的)性的暴力に無言でいることを拒む人を「可愛くない」と誹るのであろう。



無邪気に、洪水のように溢れる「可愛い」。自覚なき権力が発するとき、「可愛い」ほど手に負えぬものはない。




by風花