ノスタルジア


 以前、おしゃれに金をかけるという理由で(人間として)「信じられない」とまでおじこに言われた風花です。が、もちろんおじこの批判によって反省などいたしません。


 最近風花はメンズの服に目覚めました! いわゆる甘くてガーリーな服も嫌いじゃないんですけど、なんか自分には合ってない気がするんですよね。年齢など気にせず、好きなものを着るべきだと風花は信じておりますが、好みそのものも変化するものです。そして、今、平子理沙とか梨花とか、まぁいわゆるオトナカワイイ、ガーリーな女性にあまり憧れない自分がいます。私にとってのガーリーは、「ピクニックatハンギングロック」的な禁欲的かつ清楚な佇まいの殻の下からあふれる狂気のようなものであって、世間で広く受け入れられている誘惑する「ロリータ」的なものではないんだよな(本来「ロリータ」だって"誘惑的"なのではなく、"誘惑"に読み替えてしまう我々がいるだけだということなのですが)。


 とくに気に入ってるのは、Dior Hommeです。Dior Hommeというと、エディ・スリマンでなきゃ! という声をよく耳にしますが、私はクリス・ヴァン・アッシュも嫌いじゃないです。A/H10-11はなかなかいい感じではないかと。


 しかし、たしかにエディ・スリマンの神がかり的な美意識はすごいです。服自体というより、世界観全体のアートディレクションが非常に完成されていて、洗練されているといいますか。とくにA/H06-07のADの美しさはちょっと浮世離れしております。もう地上の男も女もないといいいますか、アンドロジナスというイデアが具現した錯覚を受けます。服自体もロマンティックでデコラティブで、女性が着ても違和感まったくないでしょう。エディ・スリマンといえば、少年性とロックが合い言葉ですが、私的には少年性と少女性はそれほど離れていない。束縛を突き破ってあふれ出す清冽で美しい狂気として。


 このA/H06-07のADのモデルは私の身体的理想像かも。


 ま、それは空しい理想なので、現実にできることとして、髪を切ろうと思います。前髪は三つ編みとかしてアレンジがきくくらいの長さを残して、横は耳が見えるくらい。後ろも短めでいこうかと。実をいうと、最近ちょっと首を痛めて、数カ月間カラーという首用のコルセットみたいなの巻いてなきゃいけないんで、その脱着やこれからの季節の暑さ対策としてちょうどいいという理由もあります。


 とはいえ、Dior Hommeの服は気軽に買える、買ってよいものでもないので、もうちょっとお手頃な線に落ち着くわけですが。あと、私はおしゃれは秋冬のものだと思っているので、夏はあまり気合いが入らないんですよね。秋冬は、ドレスシャツとジャケット(できればDior Hommeの。でもジャケットは無理か)が欲しい……貯金。貯金。あと、ブーツもいいなぁ。こんなこと書くと、おじこに明日思い切り冷たい視線を向けられそうですが。


 それはさておき、Diorのようなグランドメゾンが、何故に少年性を目指すのか、というのは考えてみると不思議です。だって、昔はお洒落ってオトナの真似から始まるもの、だったじゃないですか。ちょっと大人びた服を着て背伸びしてる子がおしゃれさんと呼ばれたりして。それが、逆転した。オトナが世界の深い絶望を経験したからでしょうか。つまり、Dior Hommeを愛する人というのは、実は、すでに経済力ならびにさまざまな(無用の?)知恵を身につけたかわりに、現実のさまざまなことに絶望し、就中少年性を失っていることに絶望してるのではないでしょうか。もちろん私自身も少年性・少女性を失ったという自覚にもとつづく、少年性・少女性への愛惜に苛まれている人間です。特に性的な成熟によって喪ったものって大きいな……何事についても性的視線で見てしまう、考えてしまうというのはつくづくうんざりしております。性的視線でものを見るというのは、一種人間の束縛の最たるものではないかと思われます。見られるのも嫌だし、見てしまうのもとても嫌です。ブロゴスフィアを彷徨していても、性的視線を当然の前提にした語りを目にする機会が多くて、それがもとで闘争が勃発していたりすると、ああ、人はオトナになると品下ると思わざるをえません。


 こんなにもあたりまえのことに今更ながら胸を痛めるとは! 少年性も少女性も、ノスタルジアの中に結ばれる果敢ない幻である。現実にあるのは、喪失と愛惜だけである−−エディ・スリマンの目がなぜかいつも悲しそうに見える理由がわかってくるような気がします(いや、もちろんわかりませんけど)。


 だからなのか。いつも少年性・少女性といって描き出される彼らのイメージは、なぜかちょっと"時代遅れ"な様式の服をまとっているのは。自分が少年少女だった当時実際に着せられていたり、着てみたいと憧れていた服をノスタルジアの中の少年・少女は着ている気がします。間違っても最新ファッションに身を包んではいません。たとえば、私の少女時代の憧れは、19世紀的なレースと絹とビロードの世界でした。なので、"少女"といえばいつも夏には白いレースのワンピースを秋冬には茶色や臙脂などのビロードの長いスカートなどを身につけているのであります。あるいは、実際に着せられていた服としては、木綿のシャツとデニムのスカート−−70年代的匂い−−80年代も少女時代でしたが、なぜか80年代には愛着がない……それは、より幼い頃に親に着せられていた70年代テイスト(つまり親の世代の流行の)ファッションの方にこそ自分の少女性の源流を見いだすせいかと思われます。つまり、もし私が最新のファッションに少女性を感じるとすれば、その最新ファッションは懐古趣味にもとづいて制作されているということです。

 
 果たして、エディ・スリマンは、少年の頃にモッズとかに憧れていたのでしょうか……


 今日の結論 
 憧憬は常に過去へ向かう。
 斬新な者だけでなく、良い懐古趣味を持つ者も創造性・独創性を発揮する。
 早く昨日になってほしい。
       




by風花