欲望、物語、現実


ニュースを見ていて、ふとあることを思い出した。風花とおじこの共通の友だちが体験した話だ。


彼女は、十代の時に左脚に悪性腫瘍ができた。悪くすれば命を落とす病だ。切断はまぬがれたものの、何度もの手術の後遺症で歩くときは左脚を庇って右手に杖をついている。普通に行動的で杖をついていろんなところに行ってた。海外旅行にもよく行ってたし、一緒に尾道に旅行したときは鎖を伝って登るような急斜面でも平気で登っちゃって私をびっくりさせるような人だ。もちろん仕事もばりばりこなして、美人でキャラも個性的なので男子にもモテる。その彼女がある夏体験したこととは……


ある夏、通勤途中の彼女は地下鉄銀座駅のコンコースで初老のおじさんに呼び止められた。おじさんは彼女の前に立ちはだかって、自分の手帳を見せながら朗唱した。「杖つきて生き行く君に世の風の冷たく吹けど凜とし歩め」という短歌を。夏である。地下である。寒風など吹いていない。彼女はムッとして「なんなんですか。余計なお世話です」と言って歩み去ろうとした。たでさえ、会社に行くため急いでいたのだ。すると、そのおじさんは声を荒げて「感謝の言葉もないのか!」と憤慨したんだって。一字一句記憶してるとは、彼女自身にとってよほど衝撃だったのだろう。


私も衝撃だったので忘れられない。この話を聞いたとき、目が点になった。腹立たしいやら滑稽でおかしいやら、私は涙が出ちゃったよ……このおじさんの中では、彼女の美しい姿を見て、若いのに杖をついて歩く人(=障がい者)に対し世間は冷たいが、自分は凜として歩いてゆく君を見守っているという物語ができあがったんだろうけど、その物語の皮をめくると、杖をついて歩く人(=障がい者)に対し、世間(に含まれる個々人)が冷たく差別的に接することが当然であり、だからこそ暖かい眼差しを注ぐ自分を美化したいという、非常にわかりやすい、陳腐な欲望が潜んでいる。彼の自己満足は、まず杖をついて歩くような人たちは社会から冷遇され、差別されていなくては成立しない。彼自身の眼差しをどう擁護しようと、彼自身が世間の冷たさや差別性に同化していることは明らかだ。陳腐な欲望と物語に酔った挙げ句、「現実に」彼となんの関係もない人を不快にさせ、さらには受け入れられないと激昂して攻撃する。最悪の欲望・物語・現実の連鎖だ。


彼女が「余計なお世話です」と言ったのは当然だと思う。彼がどのような欲望を持ち、物語を作り上げようと勝手だが、それを現実に他人に押しつけるのは迷惑の押し売りにすぎないからだ。なぜ彼は、自分の手帳に作品を書き留めることだけで満足しなかったのだろう? 欲望、物語、現実が剥がすことができないほど頑固に固まり合ってしまっているような場合、欲望、物語を自分の内に留めておくことができない、いやそんな必要はない、むしろ積極的に現実に表明するべきだという帰結に至るのも自然なことなのかもしれない。


彼女は、生き残って、大企業に勤め、好きな仕事をして、経済的に自立し、友だちや恋人にも恵まれ、普通にハッピーに暮らしている。ちなみに彼女は大学生の頃趣味で短歌をやっていてとある全国区の短歌番組で岡井隆の選で何度か入選したこともある人だ。そのときのビデオを見せてもらったことがある(岡井隆が彼女の短歌に「奇想というかロマネスクを感じる」と言っていたのを覚えている)。そんな彼女に稚拙な短歌を見せて褒められたがるとは、おじさんも運が悪い(笑)。紋切り型の欲望と物語を表現などといっては彼女からすれば、片腹痛いわといったところだろう。つまり、彼女の生活は、おじさんが思いこんでいるような惨めなものでもなんでもないのだ。おじさんの欲望が彼女の実際の生活をあってはならないものとして現実から排除したのだ。彼女は見ず知らず人の同情なんか求めていない。にもかかわらず、突如おじさんは自分の欲望・物語を彼女に向けて噴出させ、彼女が拒絶すると彼女を責めた。おじさんの中に、障がい者は差別されているが故に、親切にする者には当然感謝しなければならない、という極めて差別的な固定観念があっただけだ。彼女を傷つけたおじさんにその意図があろうとなかろうと、彼女は傷ついた。おじさんが意識していないところで、おじさんの欲望と物語が、障がい者を差別し冷遇するという現実を補強していたこと、世の風を冷たくしたいのはおじさん本人なのだということを、彼は気づくことはないだろう。


なにかに似ている。


私は、東京都の二次元キャラの規制についてはあくまで反対だ。だが、ただひたすら「二次元無罪!」と叫んでいる人たちにも違和感を抱く。自分の欲望・物語を、現実の人に対してぶちまけて傷つけるのは個人の資質と常識の問題だけなのか?


いや、おそらく個人の資質と常識の問題だのだろう。だから、私は個人の資質や常識を法規制したりすべできではないと思うし、そのような状況をあくまで望まない。何度も言うけど、規制には反対だ。しかし、ただ「二次元無罪!」という紋切り型の論法では済まされない仕組みが潜んでいる気がするのだ。欲望し、物語を紡ぐことは現実といかなる接点も持たぬ限り無罪だ。だが、欲望・物語が現実の不愉快な固定観念や差別的道徳を知らぬ間に強化していることだってあるんじゃないか? その目に見えないフェーズ、トンデモな個人が起こすトンデモな事件という誰の目にも明らかなフェーズとは違うところで、欲望・物語が現実と通底するとき、欲望と物語は潔白だと言い切れるのか。これはマンガ、アニメ、ゲームに限らず、文字作品(おじさんの表現は短歌だった)も含めた表現全体に言えることだけど。


個人が内心でどのような不道徳な欲望・物語を抱こうと自由だ。むしろ不道徳どころか、道徳的な欲望・物語の方がやっかいなのではないか。差別され冷遇される者よ、応援するから凜として健気に生きろ。という欲望・物語のなんと道徳的なことであろうか。道徳とは、つまり何を承認・包摂し、何を差別・排除するかの問題である。道徳は、強者にとっての弱者が永遠に弱者でいてほしいという一種の要請を含んでいる。そうした道徳のある部分は社会の欲望に基づいているのではないだろうか。そして、個人の欲望は社会の欲望に影響されやすい。陳腐で紋切り型の道徳ほど、人間は生体反応しやすらしい。「強姦に感応してしまう少女や女性」というのはある意味非常に道徳的な存在なのだ。強姦を女性の貞操や自衛の義務に読み替えるのも道徳である。皮肉なことだが、道徳と官警には人は容易く従う。


表現の自由」をめぐる議論を見ていて、目を塞ぎたくなるのは、欲望・物語を、現実に存在している迷惑な固定観念、差別的な道徳の強化という形で押しつけられ、傷つけられた人がその痛みを訴える声を徹底的に、容赦なく封じ込め圧殺しようとする人たちの姿だ。いわく、傷つく方が悪い。見なければいい(積極的に見なくても、社会通念や道徳を一切拒絶することはできない。また、彼女からおじさんの手帳を見せて欲しいと頼んだわけでもない)。さらには、拒絶の態度を示す人に対して非合理的な攻撃を加えてもいいというような態度も見られる。自分の欲望・物語を批評・批判する人に対してどのような復讐をしてもいいかのうように(モテない自分からエロゲを取り上げたら、全女性を敵に回すとかいうような)。どんな言説を目にしたか、書き出すのもうんざりするような。あることないことを言っている人がいるのは嘘ではないはずだ。


表現はあくまで表現であり、現実に影響を及ぼすことはありえない。というお説もよく目にする。しかし、私はむしろ表現のためにそんなことは言うべきではないと思う。表現の自由が、政治的自由を確保するためにもっとも重要な権利であるならば、むしろ表現は政治という大きな現実を動かすほど強力な力を持つものであり、表現が現実に対してまるで無力だというのでは困るのだ、本来。圧政を糺せない非力な表現・言論など意味がない。表現の自由と現実は、表現の機能が有効であるために、常に地続きでなくてはならない。


陳腐で紋切り型の、現実にある迷惑な固定観念や差別的な道徳を強化する欲望・物語を露出させるにあたっては、個人の全資質と常識と批評・批判にさらされ、憎まれる覚悟を賭されたい。古典的自由主義者のみなさん、せめてベンサムではなくミルのレベルから発言してください(『源氏物語』と「レイプレイ」を同列の快楽として評価するのはやめてください)。リバタリアンと称して、あらゆる規制、自己規制も否定するお題目を唱える人は、まず現実にある迷惑な固定観念、差別的道徳が社会から一掃されてからにしてください。それから、批評・批判=法規制と短絡的に誤読するのもやめてください。


私個人は、先にも言ったとおり、あくまで個人の資質と常識を頼んで、法規制には反対するが、規制反対派の人たちと徒党を組む気にはなれない。彼らの党派性も嫌いだし、彼らの論理、言説、態度に嫌悪感しか湧かない。表現の自由を守ることと、個別の表現に優劣をつけて批評・批判することは矛盾しないはずだ。表現に貴賤なしというでのあれば、あらゆる著作物が古典であり名著ということになりますが。出版社は持ち込まれた原稿をすべて出版するべきです。教科書に載せる作品もくじ引きで選べばよし。それが正しいというのでなければ、個別の表現は個別の価値を持っていることになる。にもかかわらず、すべての表現を平等にあつかえというような欺瞞に意義を唱える者をあることないことの中傷や脅迫で黙らせるような論理、言説、態度はほとんど文化大革命並みにあほらしく見える。そんな「正しい」運動より、私には友だちが安寧に生活できことのほうがよほど大事なのだ。


あ! 彼女に短歌を見せたおじさんて、二次元の強姦者に似てるよね。欲望を押し売りした挙げ句に感謝(イヤ〜!……おにいちゃん、やっぱり気持ちイイォ。もっと〜。的な)を求めるところがそっくり。



by風花