素晴らしきかな、アナザーワールド

ネット界をうろうろしていると心が温まることより、荒ぶことのほうが圧倒的に多い。


ネットがオルタナティブな「世界」や「コミュニティ」である可能性はあるのだろうと思う。しかし、そこに参加するのには、なにか資格みたいなものがあって、その「資格」を満たさない者はネットの「世界」や「コミュニティ」に存在できない、できたとしても非常につらいものであるような気もするのだ。


昔私の友人だった人がインターネット持つポジティブな可能性をどれほど夢見ていたか。"I have a dream."まるで AppleのCMみたいに素敵な世界。誰もが、対等で、バリアフリーで、差別も偏見もなくなり、より広い議論から知見を得ることでより理性的になっていく……みたいな。彼は、昔掲示板に本名で書き込んでいた。今も彼の名前を検索すると、まだ閲覧できる(もちろん、もう更新はされていない)掲示板が見つかったりする。彼は今どうしているのかな。今は、匿名の群衆の中でひっそりと息をしているのかもしれない。ちょっと肩を落として。


リアルの世界では、生まれ落ちた人には誰にでも尊重される権利がある。尊重されるべき理由をその人が有しているかいないかは問われない。だから私たちは、誰かに傷つけられたり傷つけることを、踏みにじったり踏みにじられたりすることを自然と回避して生きている。面と向かって議論するとき、無意識にしろ、私たちには議論の流儀みたいなものが共有されているように思える。それは単純なことだが、相手がひとつの生命体であるということを前提にするということだ。人は理性的であると同時に感情的であって、理性のために感情を過度に犠牲にした場合、理性自体が崩壊することがある。だから、対面して議論する場合、(少なくとも私は)想像のつかないものごとへの畏れのようなものが必要だと思っている。共通の理性を保っておかないと、命にかかわることがないとはいえない。理屈を闘わせるのは良いが、相手の人格や存在そのものを否定するような態度をとると、それこそ流血の事態が発生する可能性もある。だから、面と向かっているとき、相手の感情が涙や血を流しかけそうな感じを見た瞬間に、人はハッとして後悔したりするでんではないか。自分が意図したり見越したりしたシナリオと事態、および人の反応は常に食い違う。つまり、自分と同じように、生で生きている人が目の前にいる、と。人死にの可能性につながる場所に自分は立っている、と。


ネットの世界、コミュニティーで生きるということは、生命体であるということを一度やめてからでないと許されないのだろうか。生命体であることをやめる=ネットで生きる「資格」なのかもしれない。ネットが議論に向いてるのかいないのか、私にはわからない。もちろん、議論として有益に機能している部分は評価すべきだと思う。ただ、ネット議論に向かない人がいることは事実で、そのことを悪いとかダメなこととして評価したがる部分に共感できない。私が意見を異にするのは、その人が議論が下手だから悪いという理由に与しないことだ。ネットでの議論が嫌いな人や得意でない人が、リアルの議論では人を説得しうる場合はあると思う。生の人と面と向かって対話するときの、表情や口調も含めたその人の流儀が優れている場合だってある。つまり、ネット議論の流儀をその人が好まないという点が、「議論が下手」にすり替えられ、下手な者は出てこなくて良しと沈黙を強いられる気配を感じる。リアルな議論で意見の異なる相手に対して投げつける言葉として「生まれてこなければよかったのに」が稚拙だと思われるのに対して、ネットでは「ネットの世界に出てこなきゃいいのに」というのは普通に聞こえる。つまり、ネットの議論はわりとすぐこのような捨て台詞で幕が引かれるということなのだろうか。夢見られた理想は果敢なくうち捨てられる。"I have a dream."というとき、どっちの世界でより夢の持続性があるのか? 


多くの人は正論を語っているのだろう。しかし、その語り口が好きか嫌いかは別問題だ。相手の人格(ほんとうに知っているわけでもないのに)を攻撃したり、存在そのものを否定することで正論を語る人が、私は好きではない。たしかに、ネットでの論争では目に見える涙も血も流れない。だから相手を攻撃することに躊躇しない。過剰な言葉が溢れる。それが議論なのか、諍いなのか、よくわからない。脱人間化した神々の闘争というべきか。


たしかに、脱人間というのは私の夢の一つでもある。自分が涙も血も流さないということも良いが、誰の涙も血も流さないだろうということがもっと良い。誰のことも踏みにじらずにすむことが。脱人間というのは、だから、以前語った自分からの自由の一つの終局ではある。


痛覚を喪った傷だらけの人間が自動口述しているような錯覚を抱く。傷が増えたらもっと痛覚をなくせばよい。傷は傷ではない。傷を負わせることに責任はない、傷が痛むことが悪いのである。理性の尊厳は、無痛によって燦めく。生身の人間が持つある種の惨めさに塗れた尊厳に比べて、社会の正しい発展に貢献する理性の尊厳の、なんと輝かしいことよ。


かくして、日本から叩き出せ! の雄叫びと、しねばいいのに。のタグと、「自己責任」「表現の自由」が世界に横溢する。ああ、なんと素晴らしきかな、アナザーワールド。それは、「完璧さ」に魅入られて、大量の人死にが出た9.11もイラク戦争もアフガン戦争もリーマンショックもなかったかもしれない世界を垣間見た作家の全能感に満ちた幸福な錯誤と似ている。


by風花