漂流、あるいは呼吸をやめない猫


タイトルは、スピッツの名曲「ロビンソン」から。


東日本大震災原発事故が起きてから1カ月がたつ。職場では地震躁も出れば地震鬱も出て、それこもこれも、日本全体が、いや近隣諸国、世界中までもが危機感と不安と懸念に覆われたた事態であれば、まったくごく自然な人の姿のひとつであると思う。


ところで、スピッツの「ロビンソン」の一節をタイトルにしたからには、やはり草野マサムネ氏の震災後の急性ストレス障害、正確には、草野さんのストレス障害をめぐる言説について考えたことがあったからだ。上記のとおり、私は今回のような大規模災害では、実際に現場で被災した人に限らず様々な精神的なストレス(それが躁傾向であれ、鬱傾向であれ、パニックであれ)に見舞われるのはごく自然なことととらえているので、草野さんが急性ストレス障害に至ったことに、とくに特別の感慨はない。


草野さんが急性ストレス障害によって音楽活動を一時休止、延期したことについて寄せられた様々な反応のうちで、私にもっとも理解できないものが、「エア被災」「どんだけ繊細なんだよ〜」「女子か」「自分が書いてる歌詞の通りだな」「ほんとに甘ったれクリーチャーだな」「か弱すぎ」等々、主に男性から批判的、揶揄的コメントだ。もちろん、それらは草野さんのストレスに多かれ少なかれ共感する圧倒的多数の人々のコメントによって、今はすぐ目にしなくてもいい程度の扱いに落ちているので、世の中はそれなりに健全といえるのだが。


しかし、捨て置いても結構な上記のような批判的コメントを発したごく少数の人々の感性とか思考というものを、念のために分析しておきたいと思ったのは、私がスピッツと草野さんのファンであり、またこのブログの初回で取り上げた平井堅と、彼らの「ホモ疑惑」(という言葉の意味が実のところ私には理解できないのだけれど)等、私の好む男性性の一形態への敵意と嘲笑に対抗しておきたいからである。


「エア被災」という言葉は何を意味しているのか? 津波の被害はともかく、東京電力の大停電予告とその後の計画停電原発から放散されている放射性物質による被害をまるで受けていない関東以北の住民はほとんどいないだろうし、高濃度放射性を帯びた水が海に放出されていることによて、海産物の汚染の不安は、すでに野菜の風評被害に悩む農家に加えて、漁業者、ひいてはその加工品を食す全国の消費者、輸入を制限する各国の消費者、震災以前とほぼ変わらない生活を営み始めつつあるこの東京で、買い溜めに走る(走らされている)人々のうえに、かなり大きな、まさに大気(エア)のように影響を及ぼしたのが今回の大震災だった。復興ナショナリズム、自粛ムード(空気)も含め、すべての日本人がエア被災しているのである。ゆえに草野さんの症状を空芝居という意味でエア被災と言った人々というのは、まさに馬鹿。としか、私には言いようがない。


次ぎに、繊細さの問題である。繊細=軟弱・甘ったれ=女子=ダメ男という一連の連想は、実のところ「エア被災」より、余計に腹立たしい言説である。


今、日本全国で大震災への義援金がすでに1500億円を突破しているという。全国民がエア被災しているのに、これだけの額の義援金が集まったのは、自身もエア被災しているとの認識とともに、実際に避難所で明日をも知れぬ苦しい日々を送っている人々への、少なからぬ共感的想像力を多数の人々が抱いたという証ではないか。共感と繊細は、私には隣接する、あるいは地続きの心理に思われる。共感というとき、人は「力」を見るのに、「繊細」に「力の欠如」を見るのか。私には繊細があればこそ共感も湧くととらえらるのだが、ゆえに共感と繊細をそこまで峻別して後者を排除する心性が理解できない。というか、悲しみに対する繊細さと共感という一連の情動こそが日本的心性の伝統であると考えるとき、繊細さを欠いた共感という矛盾を理解するには苦慮せずにはいられないところがある。悲しみについての日本人の受容と昇華の伝統については、多数の作品、文献があるが、とりあえずそれらを簡略にまとめた最近のものとして竹内整一の『「かなしみ」の哲学 日本精神史の源をさぐる』をあげておく。


竹内さんの本を読めばすぐわかるのだが、日本人の男は、歴史的に悲しみに対して繊細であった。和歌から近代文学まで、悲しむ男の姿は連綿としてあり続ける。ときに女々しい(とあえて書く)までに、彼らは悲しんできた。自身の悲しみのみならず、他者の悲しみにまで心を寄せ、共にかなしみ(悲しみ、愛しみ等)について真面目に考察してきた男性はいくらもいる。悲しみには男も女もなかったのが、日本のある時代までの伝統であった。彼らは、つねにエア悲哀者であり、ときにはもちろんエア被災者であるゆえに悲しむ人々であった。


だから、悲しみに暮れる男を蔑視する人々を、やはり私は馬鹿。と呼ばないわけにはいかないのである。ボランティア活動に行くのはもちろん尊敬に値する行為だが、勇んでボランティアしに行って想像を超える惨状の中で疲弊して、後日より深刻なPTSDに苦しむ人たちがいたのは、そして今回もそうした人々が出てくるのを警告しているのは中井久夫だけではなく、多くの精神科医たちだろうと思う。事実、自衛隊員ですでに過労死とも思われる人が出ており、そうした直接の地震被災者ではない、別の、悲しみのための犠牲は今後も出るだろう(自衛隊員は過労死であろうが、それはこの大いなる悲しみの収集作業の一環である)。家で飼っている牛が可愛そうで避難しない相馬のおじいさんに私は被爆による健康被害について自己責任云々の原則を説く気は起きない。


男らしい男が悲しんではならいとすれば、きっとその人は牛の行く末を心配することはもちろん、福島第一原発で実作業をしている協力会社の社員には、「運は悪いと思うが、それが君が就職した会社であり、仕事なんだよ。たいへんなのみんな同じなんだ」なんて言うんじゃないかという気がするし、ゆえにボランティア活動も義援金寄付もしない、つまり、自分が生普段通り生きて暮らしていること以外になんの興味もない、誰にも共感することのない人*1なのではいないか。


私が男らしい男が嫌いなのは、要するに、たとえば「働かざる者喰うべからず」とか「苦しいのは誰でも同じ」という言葉に表れる、ある面では正当に見えかねないベラリズムの一側面だけを信奉する傾向があるからだ。「働かざる者喰うべからず」とか「苦しいのは誰でも同じ」という言葉は、ギリガンの考察した、男が主張しがちなjusticeの典型であろう。


ところで、被災地でjusticeが、集団生活の維持のためにある程度必要であるにしても、その外側には、ギリガンが示したresponsibilityがあれなばこそではないか。かなしみは、多様な表現を持つ(幸福の有様は単調だが、悲しみには個性があるというようなことを言っていたのは、三島由紀夫だったかしらん)。一つの尺度でそれを斟酌することは精神医学的アプローチとしては有効だろうが、悲しむ人が普通の人から感じるresponsibilityとは悲しみの受容を含む、共感的communicationとcareのことであり、共感は繊細さに依る。


退屈な話はここまでにしたい。


私がスピッツを、草野マサムネの詩を好むのは、ひたすらjusticeを唱えるようなマッチョな態度を取れないし、やろうとすると必ず失敗する自分(=僕)をときに自嘲気味に、ときに高貴に描き出すことで、justiceしか語れない男性像を実のところ上から目線で眺めて、ため息をついているかのようなところが好きだからだ。「ロビンソン」といえば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』の主人公を想起させられるが、かの小説が、ロビンソンを西欧人の合理主義の権化として描くと同時に、スウィフトの『ガリバー旅行記』という、西欧合理主義やキリスト教文明を相対化する作品を生む刺激となったことでも知られている。スピッツの「ロビンソン」は、もちろん西欧合理主義者でも、その相対化を図る者でもなく、ただ単に「漂流者」の含意が強いと思うが、漂流者が心寄せる対象は、「片隅に捨てられて 呼吸をやめない猫」だったりするのだ。ロビンソンたる僕にとって、確固として居場所を持ち、その権利そ主張する者ではなく、ともに宇宙をさすらう漂流者であるところの捨てられた猫のほうが近しい存在であり、そのさすらい、漂流こそが、特別な空間、あるいは生き延びる場所を築く可能性なのだ*2


漂流は可能性だ。漂流しながら、人は祈るのではないか。
だから、私も祈る。今、草野さんがどこか暗く冷たい海流の上を漂流していたとしても、それは彼自身にとって、新しい可能性であるにちがいない。というか、そうであってほしい。今、避難所というかりそめの場所で漂流を余儀なくさせられている人々にとっても。それが、帰還になるのか、あるいは見知らぬ土地での再起にならざるをえないのかはわからない。もちろん、故郷への帰還を祈るけれど。


悲しみの前で祈ることしかできない自分に絶望したとして、祈ることもしない、あるいは悲しみに沈み、祈るしかないことを恥ずべきことと思う人ととは、私は友だちにも恋人にもなりたくない。ならば、片隅に捨てられて 呼吸をやめない猫、キミだけが私の可能性だ。


最後に、先日職場の年下の女子と銀座のウェストでシュークリームを食べながら雑談していたときのことを。たまたま好きな音楽とか恋バナに話が至り、私が「草野マサムネとか、平井堅とかの詩に出てくるような人が好き」と言ったら、彼女に「どうしてですか? 共通点であるんですか?」聞かれたので、「そうね〜、二人とも恋愛の成就よりは、むしろ成就しないところに萌える質だからかなぁ。スピッツっていつもダメな男の子ばっかりでてくるし、たとえ恋愛が成就してもどこか不安気だし、平井堅は、自分の男としての欲望が好きな女性を傷つけるのが怖いから、好きであればあるほど彼女大事が故に永遠に手を出せないタイプ」と分析した。「え〜、二人ともドMですね。っていうか、風花さんもドMなんですかね」(恐れ入りました)と言われて爆笑した。それから彼女は「そういえば、二人ともホモ疑惑かけられてますよね。浮いた話のない男の人ってある程度の年になると、どうしてホモ疑惑かけられちゃんうでしょうか。女性は、別に浮き名を流してなさそうな人でもレズ疑惑って湧かないのに、変ですよね」と言った。彼女って鋭い。


たしかに、美人だろうが不細工だろうが、浮いた話がない女性について「あの人レズじゃない?」という噂が、嘲笑的に聞こえてくることはない。簡単に言えば、ホモソーシャルな男世界ではゲイの男性は脅威であり劣者であるべきだから疎外されなければならない。だが、女性たちがレズビアンな関係によって完結してしまったら、男性のホモソーシャルは崩壊の危機に瀕する。なぜなら、男を求めない女ばかりになってしまったら、男同士で女を共有できなくなるからだ。ホモソーシャルな男世界に進んで共有される女が居なければ、ホモソーシャルな男世界は崩壊してしまう。だから、女性はどんなことがあっても「レズ」であってはならない、疑惑さえも生まれてはならないのだ。


私には、別に草野さんや平井堅がゲイでろうがなかろうがあまり興味のないことである。作家主義ではなく、作品主義なので。この件に関して無頓着な顔をし続ける草野さんも好きだし、関西人的笑いでかわしている平井堅も嫌いではない。ただ、あえて平井堅に多少の文句を付けると、タイアップ企画が多くなってから、いまいち愛好度が下がった。やはり渡辺淳一作品の映画化企画はね……どうもね……なので、FAKIN' POPはいまだ買えないでいるんだなぁ……。


あ、ちなみに、風花がスピッツでいちばん好きな曲は「恋は夕暮れ」、平井堅では「キミはともだち」ね。






by風花

ハチミツ

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「かなしみ」の哲学 日本精神史の源をさぐる (NHKブックス)

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近代家族とジェンダー (社会学ベーシックス5)

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ロビンソン・クルーソー〈上〉 (岩波文庫)

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ロビンソン・クルーソー〈下〉 (岩波文庫 赤 208-2)

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ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

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男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

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空の飛び方

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SENTIMENTALovers

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FAKIN' POP

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*1:エア被災もできないどころか、天に代わって天罰を落とせる石原慎太郎の日常の不気味なまでの頑丈さよ

*2:自己反省して注記を追加する。石原慎太郎と真逆であるとしてもブンガク的コトバは何の救済にもならない。もちろんのことだが、彼らが生き延びる場所への漂着を運まかせにしてはならい。彼らの生き延びる途をなんとかしてつくりあげるべく考え行動するのがエア被災者である私(たち)のなすべきことだ